未熟さを受け入れる、足りないことを認める

国籍という枠組みの、<br />外で生きていきたい<br />【(『続・悩む力』)姜尚中×ジョン・キム】(後編)

 同感です。そういう動きが微弱であれ、出てきている実感がありますね。僕も、いつも不思議で仕方がないんです。お互いの信頼感がこれほど高い社会であるにもかかわらず、どうしてこんなに悲観論がまかり通るんだろうか、と。普通なら、信頼度が高いなら、悲観論よりは、楽観論のほうが高まりますよね。そこでポイントになるのが、先にも触れた、後見的な力に対する信頼度が高すぎたのではないか、ということなんです。

 明治以来、そうした悲観論は、ときどきムードとして出るようになっていました。そのひとつの例が、漱石かもしれない。
今は、自分たちが他者を信頼して社会と積極的な関係を持つことで、信頼度がますます大きくなると考える人たちと、やっぱり自分たちはより無力だから、より強い後見的な力を持つ人に、やっぱりすがりたいという、そういう人たちとの力が、拮抗し合っている気が僕はするんです。

 韓国の場合には、その後見的な権力に対して、力に寄りすがろうという気持ちと、ものすごく強く不信感の両方があって、ものすごく激しくスイングしていますね。だから、いい面から見るとダイナミズムと言えるし、悪い面から見ると、信頼関係がなかなか一般化できない。だから、やっぱり自己主張も強くならざるを得ない。

 日本の場合は、後見的な力が安定していれば、みんなそれほど不満を言わずにだいたいまとめってきた歴史がある。ところが、後見的な力だと思って信頼を寄せていたものに対して、信頼が持てなくなってきている人たちが増えている。

キム もちろん解決策はシンプルではないんですが、まず悲観を肯定に変えてはいけない、と思うんです。仕方がない、と。そのために重要なことは、現実を受け入れる、ということです。象徴的なのは、例えば、自分のスタンダードよりも少し優れたものが出てきたとき。さらに、相対的に自分の未熟さを感じなければいけないような場面に出会ったとき。こういうときに、どう向き合うか。それが問われていると思います。

 もちろん、これは日本特有の問題ではないんですが、こういうときは嫉妬心が強く出る。そういう空気が充満してしまう。目の前の現実を見ずに、相手を攻撃してしまう。
これは言葉を変えると、平等というものが、歪んだ形で表に出てきてしまっているということだと思うんです。ネット上は、特にそれが表面に出やすいですよね。本当に嫉妬心を持っているかどうかはわからないところもあるんですが、攻撃的な空気を感じることは多い。

嫉妬というのは、平等主義デモクラシーのひとつの欠陥かもしれません。そこにうまく向き合えないと、やっぱり自分の上にあるものを、自分のところに引きずり下ろそうという力学がどうしても働くんです。それは、どの社会でもあることなんですが、特にこういう大きな変革期や、みんなが不安を募らせるような時代になってくると、際だったものを引きずり下ろす気持ちは高まりますね。出る杭は打たれ、みんなが目立たないように行動する。

 最近、ある人に言われて気づいたんですが、10年ほど前、高校生たちが大変な格好をして街を歩いていたでしょう。山姥とか、ガングロとか、ルーズソックスとか、信じられないような格好の女の子もいた。それは、いい意味でも、悪い意味でも、すごくアピール効果があった。

 ところが今、街を歩いていても、まったく目立たないわけです。女の子を見ても、男の子を見ても目立つようなことを誰もやっていない。これは何か意味があるような気がするんです。ジェラシーが、表に出てこないで、内向化している。目立とうとしないし、破天荒なものがなくなってきている。