チェ・ホアが300万円貯蓄できた語りたくない理由

 中国の公立大学を卒業後は、朝鮮族の中学校教師となった。しかし、現地での教師の給料はひどく安いため、とても家族を支えることなどできない。「もっと稼ぐことができる仕事を」と、教師になってから2年後、大連のアパレル企業に転職し、営業担当として中国各地を飛び回った。

「得意なこととか、趣味と言えるようなものはあまりないんですが、洋服とかアクセサリーは大好き。そういう意味でその会社に入れて、最初はすごくやりがいを感じました。給料は教師時代とそんなに変わらなかったけど、できたばかりの小さな会社で、将来性を感じたんです」

 その当時、中国の急速な経済成長はすでに始まっていた。

「中国人の中で、『ファッションにお金を使う余裕』が出てきていました。それまで、日本のファッション雑誌を読んできた私は、中国の一般的な人たちのファッションがずっと気に入らなかった。『ダサイなあ』って思ってたんです。でも、それはみんなが貧乏だったから。経済が発展すれば、特に若い女の子なんかは必ずファッションに興味を持つし、お金を使うようになる」

 その会社で、チェ・ホアは、バイヤー兼販売・経理・人事とすべての役割を任せられていた。

「最初のうちは『私の能力を買ってくれているんだ』と嬉しくて、休みもとらず頑張っていたんですが、実はそうじゃなかった。あるとき、私より5歳年上の社長に呼び出されてこう言われたんです。『君はよく頑張っている。私としては今の倍は給料を出したいと思っているんだ』って」

 この一言で彼女はピンときた。これまで、事業に関わる実務、経理の帳簿までをすべて見てきたチェ・ホアは、会社の利益がまったくあがっていないばかりか、毎月赤字であることを知っていたのである。

 それにもかかわらず、社長からの「給料を倍にする」という提案。普通の話ではないと悟った。これはいわゆる「太子党」、吉林省の共産党幹部の師弟でもあり、事業の採算度外視に「遊び」の一つとして会社を経営する社長の「愛人」にならないかという提案だった。

「まだ20代の半ばでしたし、とにかく私は稼いで貯金したかった。すいません、この件についてはこれ以上話したくないんです……」

 それでも、アパレル企業に入社してからの3年間、チェ・ホアは必死に会社と社長のために尽くした。

「そこでの3年間は、正直辛かった。その代償として、私は日本円で300万円ほどのお金を貯めることができました。でも、精神的にはボロボロになり、中国で生きることに嫌気が差してきていました。どんなに頑張っても、収入的な限界もあった。しばらく忘れていた日本への憧れが、もう一回よみがえってきました。『とにかく、中国以外のどこかへ行きたい』、そう思っていた。そうなると、日本しかありません。我慢と引き換えに、日本へ留学できるくらいのお金を持つようになっていました。言葉も問題なかったし」

 2002年、チェ・ホアは来日を果たした。当時は28歳。借金や、より割安な裏ルートを利用して留学する方法があることも知っていたが、全額自費での来日だった。

 そして、新大久保の日本語学校に入学することになるが、「就学ビザ」の期限は2年間。半年ごとに更新があり、日本語学校の出席率や成績によっては打ち切りになってしまう。しかし、大学や専門学校等の試験に合格できれば、在学中は有効な「留学ビザ」に切り替えることができる。

 周囲には日本語をまったく話せずに来日し、在籍期限となる2年間を通して日本語学校に通う者のほうが多かった。しかし、彼女は、来日した年に日本語検定一級と大学院の入学試験に合格することになる。