ひとりの中国人男性が「中国エステ」を広める

 さらに、歌舞伎町で1990年代初頭から働き始め、現在は飲食店を経営する中国人のCは、「風俗マッサージ」についてこう語る。

高学歴美人「中国エステ」ママの行く末 <br />「カネの奴隷」と「豊かで幸せな生活」の天秤の上でチェ・ホアが経営する店舗にはシャワーも完備

「『抜き』(性的サービス)ありのエステを始めたのは、私の少し前、1988年に日本にやって来て、飲食店経営で成功した人だって聞いたことがある。本当にその人が最初に始めたのかはわからないけど、でも、その人が初期の時点で『抜き』ありの店に手を付けて、そこから大々的に事業を拡大して、その売上を元手に合法的な飲食店の経営を始めていったっていうのは確かだよね」

 ここで語られる「飲食店経営で成功した人」は、わけあって今は歌舞伎町に姿を見せない。しかし、その存在は、彼自身や、その周囲が残したエピソードとともに、多くの中国人飲食店経営者に知られている。

「90年代の前半にも、『抜き』なしの中国系マッサージ店はいくつかあったけど、『抜き』ありはなかった。ライバルがいない状態。だから、すごく儲かってただろうね。当時は、バブルが崩壊したっていっても、まだまだ景気がよくて、今では考えられないくらい歌舞伎町に人が溢れてた。最近はベロベロに酔っぱらって歩くサラリーマンの姿をほとんど見かけなくなったけど、あの頃は平日でもたくさんいたよ」

「飲食店経営で成功した人」がすべて自分で考案し、ひとりでその歴史を変えたのかは確かではない。その点については、さらなる検証が必要になるであろう。ただ、「飲食店経営で成功した人」が、あるいはその時代に「中国エステ」に関わっていた者たちが、単に「性的サービス」を始めただけではなく、より複雑で、革新的な工夫をもたらしたようだ。例えば、Cやその当時を知るものは、以下のようにその記憶を語り出す。

「その店が新しかったのは、女のコのキャッチを使って客引きをさせたっていうこと。日本の風俗店の客引きは男ばかりだったなかで、若い女のコがキャッチをすると目立ったよね。キャバクラで女のコが店前に立ってっていうのあるけど、ほかでは普通ないでしょ」

 90年代後半、日本人による「ぼったくりバー」が繁華街で流行することになるが、そこでも「ガールズキャッチ」と呼ばれる、若い女性の客引きが活動していたと言われる。しかし、2000年に東京都で「ぼったくり防止条例」が制定されたことで、結果的にこの業態は消滅へと向かう。両者にどれほどの関係性があるかはわからないが、「ぼったくりバー」と違い、今も残る「中国エステ」の女性キャッチの「誕生」は、90年代以降の繁華街にとってのイノベーションだったのかもしれない。

歌舞伎町で生まれた性風俗産業の「イノベーション」

「『オニイサン、マッサージいかがですかー?』っていう、日本に来たばっかりで、いかにもまだ日本語喋れない感じのあの声掛け、その時からやってたよ。サービスは適当。最初の10分だけマッサージ。あとは『抜き』『本番』で追加料金を取る。『抜き』だけなら7000円から8000円くらい、客引きによって値段が変わって、『本番』は1万円から」

「当時、日本人が経営する風俗店のメインはファッションマッサージ。本番はソープに行かないと基本的には無理。だから、万札1枚で気軽に『本番』ができる店ってことでめちゃくちゃ流行った」

 最盛期、90年代半ばからの数年間で、彼が経営していたのは4店舗。客引きの誘い文句、内装、看板、店のネーミングなどは、その店舗が原点となって広がっていったのだとCは言う。

「働いていたのは、留学生もいたけど、それよりもオーバーステイとか、日本人と偽装結婚している女が多かったね。在日中国人向けの新聞に広告を打ったらバンバン応募してきた。あの頃は、今みたいにしっかり留学してっていうよりも、経済格差も今では考えられないくらいあったし、やっぱりはっきり言って出稼ぎ、カネ目的で来ている人は多かったから」

 当時の「中国エステ」では、1日で7、8万円を稼ぐマッサージ嬢も珍しくなかったという。当然、街で目立ち始めた「新勢力」に対して、「既成勢力」が排除に乗り出す力もあった。

「もちろん、警察のガサも今ほどではないにしても定期的にあった。あとは、日本人経営の店やキャッチ、そのケツ持ちのヤクザともよく揉めてた。だけど、あんな粗末な店構えでやっている中国エステがどうやら儲かるらしいっていうことに周りも気づいてくると、状況も変わってきた。ケツ持ちも、外国人だろうが関係なく儲かっているヤツとは仲良くして、何かしらのカネを取ったほうがいいと考え始めたんだな」

 こうして、上納金を支払い、安心して「中国エステ」を続けられる街ができるまでに、そう時間はかからなかった。

 当時を知っており、今も歌舞伎町で飲食店などを経営している複数の中国人が、Cの語る記憶を共有している。少なくとも、新宿・歌舞伎町で始まった「飲食店経営で成功した人」やその周囲の動きが、「中国エステ」が儲かる事業であると知らしめ、「業態のイノベーション」を起こし、全国に展開される起点の一つとなったのは確かだと言えるだろう。