いまでこそ、あまり気にしなくなったが、不自由なカツラーだったころ、カメラは最大の天敵のひとつだった。知人たちと集まった席で、あるいは和やかな飲み会で、

 「はい、笑ってえ!」

などと声をかけられ、カメラが自分に向いたときはサーッと血の気が引く。身体も心も凍りつき、表情が強張る。

(ばれる! やめてくれー)

 心の中では悲鳴が響く。その動揺を表すまいと繕うが、そもそも写真を撮られるのは苦手だから、救いようがない。

 カメラがなぜカツラーの天敵かといえば、写真に撮られると、普段以上に「あ、カツラだ」と、わかりやすくなる。光の反射と吸収の具合なのか。カツラの髪がベタッとつぶれた感じで自然なふんわり感がない。絵具で塗りつぶしたような一様さというか、妙なのだ。

 第二に、否応なしに「わかる」という現実を突きつけられる辛さ。鏡の前で必死に整えたカツラが、行動するうちに乱れたり、襟足の髪がはねたり、いかにもカツラっぽくなっている。

 普段は自分で見えない分、目を背けて過ごせる。が、写真はごまかせない。自分を客観視し、現実を直視することになる。僕の場合、たいていはひと目で「カツラだ」とわかる具合に映っていた。

 ごくまれに、(これならカツラとわからない、自然に写ってるじゃないか)と胸をなでおろしたこともあるが、全体の3割にも満たなかった。

 その恐れは、快適なカツラーになったいまも少し残っている。いま使っている編みこみ式でも、髪をきちんとセットせず、いい加減な手入れで外に出たとき写真を撮られたら、どこかカツラっぽさがにじみでる場合がある。サイドから襟足にかけての髪の流れが、なんとなくカツラっぽい、とか。