1996年の後半はポップスのライブが続き、その合間に初めてオペラのアリア、「蝶々夫人」の「ある晴れた日に」を歌い、東宝ミュージカル「王様と私」(9月)に出演し、声楽的発声でハイトーンに挑んでいる。そして、翌97年に予定されていた東宝ミュージカル「レ・ミゼラブル」10周年公演に向けたオーディションを受けていた。

悲劇の少女エポニーヌ

 本田美奈子さんは「ミス・サイゴン」の成功後、多忙を極める事態になっていた。バンダイで97年に発売する予定で準備していた新しいポップスのアルバム制作も進んではいたが、けっきょく実現していないのは、レコード会社やスタッフの事情と、「レ・ミゼラブル」出演の影響であろう。「レ・ミゼラブル」に限らず、ミュージカル出演の要請が押し寄せていたのだが、本田さんは「レ・ミゼラブル」を選択した。

「レ・ミゼラブル」10周年公演に登場<br />研究を重ねてたどりついた歌唱法分析(1997)「レ・ミゼラブル」のエポニーヌを演じる(写真は2000年撮影)
写真提供=東宝演劇部

 96年11月のファンクラブ会報にはこういう発言が掲載されている。

 「今年(96年)は年末のイベントやライヴ等でレコーディングは出来ないし、来年は『レ・ミゼラブル』があるので……でも来春目指した作業を進めています」(「Blue Spring Club」96年11月号)

 アルバムの準備を進めてはいるものの、「レ・ミゼラブル」の練習が頭の相当部分を占めていることがうかがえる。

 「(『レ・ミゼラブル』の)オーディションは受けました。緊張しましたよ。自分では『ミス・サイゴン』(92-93)ではじめてミュージカルに挑戦したんですけど、死んじゃうのが多いんです。貧しかったり。でも『王様と私』(96年9月)はきれいな衣装を着させてもらいました。だって『ミス・サイゴン』死んだでしょ、『屋根の上のヴァイオリン弾き』は毒に浸かったでしょ、『王様と私』のタプチムは私の解釈でいくと、殺されたんではなくて、連れて行かれてから鞭で打たれたりなんかしてるけど、その前に『おそばに参ります』って自分で決意したから、舌を噛んで自殺したの。レ・ミゼ(エポニーヌ)も死ぬでしょ。この死ぬ確率ってすごいと思いませんか。」(「Blue Spring Club」96年11月号)

 オーディションについてはここで「受けました」とだけ記されている。オーディションは96年8月から9月にかけて行なわれ、10月11日に東宝から配役が発表されている。このオーディションもすんなり合格し、エポニーヌ役に当てられた。すでに5年にわたって東宝でプリンシパル(主演級)を演じており、悲劇的な役柄にも合い、まさにぴったりだったのである。

「レ・ミゼラブル」のプロデューサーはキャメロン・マッキントッシュ、原作はヴィクトル・ユゴー、制作アラン・ブーブリル、クロード=ミシェル・シェーンベルク、作曲シェーンベルク、演出ジョン・ケアード、トレバー・ナン、訳詞・岩谷時子、青井陽治と、「ミス・サイゴン」とはトレバー・ナンと青井さんを除いて同じスタッフである。東宝のプロデューサーも同じ古川清さんだった。