シンナー、ホテヘル、美人局……小野が権威をまとうまで

 大田が出会った時期の小野は、ただただ自分の知らない分野に明るい者、さらに、そういう人物と関係の深い者たちを集め、おだてることでしか生きられなくなっていた。もはや、かつてのように、威勢の良い若者を集めて怒鳴り散らしながら、カネの匂いがする場所に“ツギハギ本”を売りつけることも、保身のために醜聞を嫌う者を探し出し、揚げ足をとって“強請る”こともできない。少しでも「以前の実力」を見せれば、揚げ足を取られて“シャバ”から消えるのは自分だと自覚していたからだ。

 小野は「プロジェクトメンバー」に「みんなで儲けましょう」と語りながら1円もカネを支払わない代わりに、深夜まで働くメンバーを必ず安価なチェーン系居酒屋に連れて行った。そして、ビールやマッコリを飲みながら楽しそうに昔話をし、メンバーも興味深く耳を傾けていた。

「生まれは北国。実家は兄貴が継いで農業をしている。去年久しぶりに帰ったが、いつの間にか実家に中国人の嫁がいた。何にもやらん女なんだけど、兄も親父も何も言えない。情けないもんだ」

「学校に通っている時は、傷害と恐喝で少年院にも行った。高校を中退した後、職を転々とした。いろんな仕事をしたな。配線工、鳶、大工の助手、ガラ運び、運送屋……18歳くらいまでは食うためにけっこうまじめに働いていたよ。それで東京に出てきた。先に上京してた先輩を頼ってね。東京でも最初のうちはやっぱり現場仕事で汗流してたよ。『そのうちおれは職人になるんだろうな』って思ってた時期もある。昔はヤクザが仕切ってた工事現場も多かった。そこで出会った人(兄貴分)と、いろいろ悪さするようになったんだ」

「でも、その頃、おれのする悪さといえばやっぱり喧嘩とカツアゲくらいだ。カツアゲっていったって、街の学生やチンピラ相手じゃたいしたカネにもならない。兄貴に言われたよ。『もっと頭使えば、いくらでもラクに稼げるぞ』って。まずは兄貴にくっついて歌舞伎町でシンナー売りだ。ガキどもに声をかけて売りまくった。因縁つけてくるガキはボコボコにして自分の下につけていった。こうやって若い衆を増やしていくんだ」

「20代のとき、一番儲かったのはホテトル。おれは渋谷と新宿を拠点にしてやっていた。あの頃は公衆電話ボックスにビラを貼るだけで簡単に客が引けた。もちろん本番あり。ここで美人局もやった。常連でカネ持ってそうなオヤジの情報を女から聞くと、俺が絵を描いてそいつからカネを引っ張るわけだ。まあ、やり方は単純。おれが自分で女を派遣しておきながら、『俺の女に手ぇ出しやがって!』とホテルに入ったところを襲っちゃうんだよ」

「そういうことをしていると、カネを引っ張った男から逆に相談受けたりしてね。『今回は払いますが、実は○○にカネを貸してるんだけど返してくれない。小野さん、取り立てやってくれませんか』とか、『うちのケツ持ちになってくれませんか』とか、『どこそこという会社を脅してくれませんか』とか。そうやってコネをつくっていった」

「そうこうするうちにバブルの時代だ。あの時代、俺はある組の親分の運転手をやっていたんだが、自由な時間は自分のコネで地上げをやったり、企業恐喝して土地建物をぼったくったり、いろいろやった。儲かったな。そして90年代になって右翼団体Bを譲り受け、政治活動を始めたんだ」

 当時から小野を知るアウトローの一人は、「当時の小野さんはイケイケドンドンの勢いがあるうえに、(暴力団)組織の威光を利用して、もともとは別の人間のものだったBを半ば強引に奪って、自分のシノギにしていった」とも語る。大田は何度か、民族派の歴史をまじめに質問したこともあったが、小野にはその都度笑ってごまかされた。

 いずれにせよ、20代から40代までの期間、途中で何度か刑務所に入った時期はあるものの、小野のカネ回りが良かったことは間違いない。そして、名前を知られるようになった小野の周囲には、「虎の威を借るキツネ」が群がるようにもなる。かつては、現在ほど「暴対法」も厳格に運用されていなかった。暴力団や右翼に対する一般人の意識も、今でも抱かれている強い忌避感の一方で、「ヤクザ映画」が人気を博したように、そこに存在する価値観への「親しみ」や「憧れ」の情もあった。そのため、小野は建設関係企業の社長などから引っ張りダコとなっていた。

 取れそうにないカネを引っ張り、面倒を見ている社長と敵対する企業に街宣活動を仕掛ける。小野の息がかかった探偵を雇ってスキャンダルをつかみ、あるいは捏造し、恐喝した。先を見据えたバランス感覚や組織の効率的運営という、現代のアウトローにことさら強く求められる要素を小野が備えていたかに疑問の余地はあるが、ある時期に、自らを「強くてイケイケ」と信じ込ませることに成功していたのは確かである。