2000年に、夫で社長でもあった藤原善也社長が急逝する。恵子氏の父で会長を務めていた章夫会長が短期間、社長を兼務した後、恵子氏が社長を引く継ぐことになった。経営者の突然の死という危機を、どのようにして乗り切ったのか。

藤原恵子
フジワラテクノアートの藤原恵子社長は創業家出身。しかし経営や技術には全くの素人だったという。経営者だった夫の死という危機をいかにして乗り切ったのか。

 卒業してすぐ結婚し、子育てが命みたいな生活だったんですけれど、一転して主婦から社長へということになりました。

 私はここで育ったので、会社というものは、身近には感じて生活しておりました。小さい頃には、近所に独身寮がありまして、そこのお兄ちゃんたちとご飯を食べたり、お風呂に入ったりしていましたから。現に、私が社長になったときには、一緒にご飯を食べたお兄ちゃんたちが、何人もおりました。もう60歳前後でしたが、あの人もいる、この人もいるということで、とても勇気づけられました。

 社長というのは何かあったときに、責任を取らなくてはいけないということは、分かっていましたが、それ以外何も分かりませんでした。分かっていたら、できなかったかもしれません(笑)。

 うちの社員はいい方ばかりで、頼りない社長を、みんなで支えようという気持ちが、ひしひしと伝わってきましたので、私がなすべきことは、お客様と同様に、社員が満足して幸せになるような会社にすることだと、それは本当にそう思いました。

社長に就任するとまず、社員一人一人と面談を行った。そこで恵子社長は今でも脳裏に刻みつけている言葉を聞く。

 家庭環境のことは聞いてはいけないと言われていたので、こちらは何も聞かなかったのですが、社員の方が家庭のことを含めて、いろいろなことをしゃべってくれました。それからお客さんのところを回ったのですが、みなさんかわいそうに思ってくださって、温かく迎えていただいて、「なんていいお客さんなんだろう」と思って、帰ってきました。お客さんからも教わることが多かったですね。