完全に死んでいた当時のアップル

 別に「新しい当たり前」は、私の成功体験に基づいた話だけではありません。失敗から学んだことも多々あります。何といっても、アップル・ジャパンの社長時代は何度もクビを覚悟しました。

 実はこれまで外資系企業の守秘義務があったので、ほとんど外部の人に語ることがありませんでしたが、アップルを辞めて3年が経過したので、今回ここではじめて悪戦苦闘の舞台裏を簡単にお話しすることにしましょう。

 私が、日本のセールス担当バイスプレジデントとして米国アップルに入社した2004年7月は、日本でのアップルはまさにどん底状態でした。家電量販店に行くと、アップル製品の売り場は店の奥まった場所に追いやられ、並んでいる商品も埃をかぶったまま……。今のアップルの人気ぶりしか知らない方には、とても想像できないことでしょう。

 1990年代後半に発売された半透明のパソコン「iMac」で巻き起こした一大ブームは、そのときはすでに過去の栄光となり果てていました。本国のアメリカやヨーロッパでは、すでに「iPod」の廉価版である「iPod mini」が爆発的に売れていましたが、日本だけは元気がなかったのです。

 その理由の一つは、インターネットで楽曲が買える「iTunes」の日本語版がまだリリースされていなかったことです。アメリカのiTunes Store で購入しようと思うと、アメリカに銀行口座がないと買えない状況で、2004年の7月にようやく日本でもiPod mini の販売が始まりましたが、盛り上がりは今ひとつでした。

 そうした状態だと、携わっている人間も元気がなくなります。実際、最初にアップル・ジャパンのオフィスに入ったときのことが忘れられません。負け癖がついて腐っている感じがオフィス内の空気をどんよりとさせ、表現は悪いですが、完全に死んでいる状態でした。

 前職のオラクルから一緒に連れて行った秘書が最初の二週間で怒り出し、「こんな会社、いる意味ありませんよ。辞めましょう」と泣きながら懇願されたほどです。私は最初の3カ月、まずアップルの現状を冷静に正しく知ろうと思い、関係者から事情を「聞く」ことに徹しました。全国の販売先やパートナー企業をくまなく回る一方、社員の働きぶりも一切文句を言わずに見続けました。

 すると、営業部門では目標値を設定する習慣がなく、数字もどんぶり。販売予測もいい加減で、本社と国内の販売店双方の信頼を欠いていたことがわかりました。4カ月目に入ったころから、私は思い切って組織の改編に着手しました。負け癖がついていたミドルマネジャーの代わりに、本当にアップルを愛している新卒の若手を積極的にマネジャーに登用しました。

 ただ、そう簡単に効果が表れるわけもなく、おまけにiPod の中国製コピーが40種類も出回るという外敵にもさらされました。iTunes の導入も国内での版権問題が障壁となってスムーズに運ばず、期待したクリスマス商戦は思ったほどの数字を上げることができませんでした。

 私はこれまで転職先では必ず業績を上げてきましたが、アップルでは半年も低迷し、業績が一向に上がらない。それは人生最大のピンチでした。当時はスティーブ・ジョブズが、CEOとしてバリバリ陣頭指揮を執っていたころ。日本の不振ぶりを聞いて案の定、渡米命令を送ってきました。

 私はクビを覚悟して、カリフォルニア州にあるアップル本社に出向き、スティーブと、当時COOだったティム・クックの前に立ちました。

「なんで、売れないのか?」「いったい日本では何が起こっているのか?」

 険しい表情のスティーブから矢継ぎ早に質問が飛んできます。いつもの私だったら負けじと言い返していましたが、このときばかりは一言もしゃべりませんでした。数字が上がっていないのは事実で、営業の立場では言い分けをしても仕方ないと思ったのです。

 その後、私は首の皮一枚でつながり、与えられた最後のチャンスを活かすべく、背水の陣で変革に向き合うことになりました。