アップルの復活も原理原則から始める

 崖っぷちに立たされた私は、もう失敗を恐れている場合ではなくなり、より大胆に動き始めました。やる気のある人が仕事をしやすく、活躍できる場を用意しようと、本社の人事担当と給与バランスの細かな打ち合わせを重ねました。

 若手でも働きに見合った給料がもらえる体系をつくり、同時に営業目標値をきっちりと設定。目標を達成し、優秀な成績を上げた社員にはそれ相当の評価をする仕組みも導入しました。優秀な人材の流出を防ぐ狙いもありましたが、こうした新手に社員たちの目の色がどんどん変わっていくのを肌で感じました。

 アップル製品を愛する人間が販売の最前線に立つことも重要と考え、アルバイト中心だった販売店の応援を新卒社員に切り替えました。あらゆる計算式を使って販売予測の精度向上を図り、朝五時から開かれる電話での世界販売会議には毎週出席して、商品の需給バランスを管理する本社スタッフとのパイプも太くしていきました。

 iTunes 日本版のリリースが決まった2005年8月、かねてから熱望していたスティーブの来日が実現。これで風向きが一挙にフォローに変わり出しました。iTunes Store は開始4日間で100万曲のダウンロードを記録。翌月には、日本人の好みにあった「iPod nano」を販売し、売上は前週比の倍から3倍になりました。

 さらに翌週も倍、次の週も倍という状態が四週間も続き、数字が複利的に跳ね上がる勢いは、まさに「地響きを感じる」ほどでした。そのころには社員たちも、はつらつと楽しそうに働くようになっていました。

 この年のクリスマス商戦はもう忘れられないくらいに売れ、携帯音楽プレーヤーのジャンルではソニーを抜いて売上シェアトップを勝ち取ります。すると、年末にティムから突然電話が入り、電話越しにこう語ったのです。

「Steve's glad about Japan's recovery」(スティーブが喜んでいるよ)

 それを聞いたとたん、私は思わず涙を流してしまったのを今でも覚えています。その後、商品供給の問題、シェアの低い地方へのアップルブランドの浸透など、課題をこなすのにさらに一年かかりましたが、火を付けたiPod 人気がやがて「iPhone」に飛び火していったことは、もうここで詳しく語る必要はないでしょう。