原発立地地域のフィールドワークで注目を集め、最新刊『漂白される社会』(ダイヤモンド社)では、売春島、ホームレスギャルといった「見て見ぬふり」をされる存在に迫り続ける社会学者・開沼博。そして、東日本大震災を機にそれまでの自分を捨て去り、「詩の礫」としてTwitterでありのままを紡ぎ始めた詩人・和合亮一。
3月11日の震災報道を見ても、ありもしないゴールを震災復興に見出だし、安心しようとする動きが少なくない。開沼・和合両氏は、なぜ安易な結論を求める流れに抗い続けるのか?対談最終回ではその真意が語られる。

心の記録を続けることで記憶をつくる

開沼『詩の礫 起承転転』(徳間書店)を通読して、いろいろな思いが込められていることを感じましたが、なかでも「怒り」は印象に残りました。様々な形で表現される怒りがひとつの方向に向かっているようにも感じましたし、その怒りの正体が何かとは明言できるものではないのかもしれません。

 例えば、ベン・シャーンの話にしても、「事故を起こした人が悪いのか」「作品展示を企画した人間が悪いのか」「作品展示を受け入れるときに少しでもできたことがあったんじゃないか」といったように、様々な責任の所在があり得えます。明示はされていませんが、和合さんが怒りを伝えたいことはわかるというのが僕の感想です。

 本当は「これが悪い」と断言すべきなのか、ご自身のなかで曖昧だから書いていないのか。その迷いは最後に登場する「鬼」という表現に集約されているのかもしれません。怒りが中心にあるんだけど、その中心をあえて消しながら書かれている。もっと言うと、名指さないからこそ書けることを書いているのかなという印象を持ちました。いかがでしょうか?

心の記録を続けることで記憶をつくりたい<br />「結」のない福島のいまを伝え続ける<br />【詩人・和合亮一×社会学者・開沼博】和合亮一(わごう・りょういち)
1968年、福島市生まれ。現代詩人として活躍しつつ、国語教師として高校の教壇に立つ。第1詩集『After』で第4回中原中也賞受賞。第4詩集『地球頭脳詩篇』で第47回晩翠賞受賞。2011年3月11日の東日本大震災以降、ツイッター上で詩を投稿し、『詩の礫』(徳間書店)、『詩ノ黙礼』(新潮社)、『詩の邂逅』(朝日新聞出版)を3冊同時刊行。これらの作品は「つぶてソング」「貝殻のうた」他、楽曲にもなる。最新作『詩の礫 起承転転』(徳間書店)を2013年3月に刊行。
オフィシャルウェブサイト:http://wago2828.com/
Twitter:@wago2828

和合 怒りをぶつけようがないんですよね。例えば、除染1つにしてもそうです。これも『起承転転』には書きましたけど、僕の家には、僕が小さいときから育てている柿の木とクルミの木がありましたけど、除染のときに全部切ることにしたんです。除染の作業はとても丹念に行いました。取り除いた土は庭の一角に埋めて、そこには棒を立てて近づかないようにしています。一事が万事ですが、その土すらどこかに持っていきようもないんですよ。

 持っていきどころのない感情というのは、これまで我々が経験してきた感情のどれにも属さないわけですよね。そういった属さない感情を記録したいと思います。たぶん、これが作家であれば、ベン・シャーンの件ついて細かく追求したり、除染にしても何にしても、もっと違うアプローチがあるのでしょう。詩人の僕は、心の記録を作っていきながら、記録を続けることで記憶をつくり出したい。『起承転転』もそういった想いで書きました。

 本来、1冊の書物には、問いがあって、入り口があって、1つの答えがあって、出口があるのかしれません。しかし、例えば復興にしても、福島の現状はすべてが起承転転です。そうした「出口のなさ」というものを心に記録したいなと思っています。

開沼 なるほど。おっしゃることを裏返してみれば、出口のない現実があるにもかかわらず、無理にでも出口があるような雰囲気がつくられようとしている側面もありますよね。例えばそれは、怒りの向けどころを何かに定めて過剰に吊るし上げようとしてしまうことかもしれないし、とりあえず復興予算を消化してしまうことかもしれません。震災から2年が経つなかで、現実が「起承転転」なのに「結」をでっち上げようとする力学はますます強まっているような気もします。

 例えば、今年の3月11日前後の報道を見ていても、とりあえず「復興が遅れている」「風化が進んでいる」と多くが口にしていました。そういった「懺悔姿勢」を押し出した問題設定のもとに議論が進み、被災地が切り取られている。僕はその問い自体が不思議でした。「復興が遅れている部分もあるし、進んでいる部分もある」「風化が進んでいる部分もあれば、遅れている部分もある」というのが現実です。そんなことは足を運べばわかります。その光と闇を丁寧になぞってこそ、復興を促し、風化を抑えることができるわけです。

 しかし、それを行わずに、とりあえず「懺悔姿勢」を全面に出す。「懺悔姿勢」は一見すると事態に真摯に向き合っているようだけど、実際は極めて安直な態度でしかない場合もあります。沈痛な表情を浮かべて「懺悔姿勢」を示していれば、誰からも責められず、その場をやり過ごすこともできるでしょう。

 それでは、「はい、これでセレモニー完了」とアリバイをつくり、安心することにしかならないのかもしれません。和合さんの言葉を借りれば、「結」を置いてしまうこと、ゴールを無理矢理に設定しようとする方向に向かう思考が強まっていると感じます。その意味では、「転転」としてあえて「結」を見ずに状況を捉えることを押し出す点には、非常に共感するものがあります。