表現としてレトリックを使うのは、悪いことじゃない

 たんなるテクニックと技術とは、違うと思うんです。たしかに、世界が慟哭するくらい日本のテクノロジーはすごい。ところが「社会的技術」というのが、なかなか開発されていかない。

「社会的技術」というのは、社会問題を解決するような技術のこと。コミュニケーションだって、もちろん社会を構成していく大事な要素でしょう。どんなふうに他者と社会をつくっていくかを考えることができて初めて、「伝える」ことが重要になる。ところが、他者をねじ伏せたり、篭絡させたり。コミュニケーションをたんなる戦略的な相互行為として捉えていくと、たとえば3分間で人を落とせるとか、そういうことになってしまう。

 それはテクニックではあるかもしれませんが、技術ではありません。僕も伝え方とかコミュニケーションにずいぶん迷ってしまった、佐々木さんの同類。だから、相手のことを考える「想像力」が大事だというのは、よくわかりますよ。

「心」という小説を書くことで、<br />亡くなった息子に近づきたかった<br />【姜尚中×佐々木圭一】(後編)

佐々木 たとえば、小説を書かれるときも読者のことを想像しながら書かれたりするものなんですか?

 本質的には、素直に自分が書きたいものを書きたい。でもやっぱり、それが読者に伝わってほしいし、伝わることを想像しながら書いていますね。

 佐々木さんもサイン会をやるとわかると思うけれど、読者は佐々木さんにぜひとも会いたいと思って来てくれます。そして握手をすると、間違いなく自分の思いが伝わっているという感触がある。それがテレビではわからない活字のよさであり、ありがたみでしょう。

 伝わってほしいと願うからこそ、読者を想定して、多少あざといこともします。あの漱石だって、新聞小説書くときにしていたんですから。

佐々木 それは面白いですね。たとえば、どういうことを?

 僕、今回の小説のタイトルに、漱石大先生の『こころ』を借りてしまったけれど、彼は『こころ』を連載するにあたって、サブタイトルに「先生の遺書」とつけたんです。そうすると、まず読む人は、誰かが死ぬんだろうと思いますよね。

 自ら死を選ぶ人がいる。これはどういう展開になるんだろう?そして冒頭の「私はその人を常に先生と呼んでいた」という一文を読んで、読者は「ええっ!」と思うわけです。つまり『こころ』は、先生が死んだあとに、それをすべて知っている「私」の目線で語られるのだと。

 当事者には、ストーリーは全部わかっている。でも、読者には何もわからない。そうすると、まるで「刑事コロンボ」のように、読者は謎解きをしたくなりますよね。

佐々木 先生がいて、「死」という事実がある。何が起こったんだろうと思いますよね。パズルの最初と最後しかないけど、途中はどうなっているの?と。

 表現として、こういうレトリックを使うのは、けっして悪くありません。この間、『レディ・ジョーカー』などを書いている、作家の高村薫さんにお会いしましたが、残念ながら今、彼女が書いているようなすばらしい小説を読めるリテラシーを持った人がどんどん減っていると感じるんです。

 考えてみると、ビジュアルや図像、映像、記号化されたものに慣れた世代は、長編小説を読むだけでも大変。その人たちを惹きつけて読んでもらうためには、ある程度タイトルなどで目を引くことも重要だと、僕は思います。