『租税国家の危機』でボリシェヴィキのロシア革命をこき下ろしているシュンペーターだが、マックス・ウェーバー(1864-1920)との対話では少し違うニュアンスが伝えられている。ドイツ歴史学派の流れをくみ、社会科学の巨人として日本人にも馴染み深いウェーバーと、ウェーバーより19歳下のシュンペーターの関係を探索してみよう。

 『租税国家の危機』が出版されたのは1918年前半と推定しておく。マックス・ウェーバーは1918年夏学期限定でウィーン大学法-国家学部に正教授として招かれていた。シュンペーターはグラーツ大学教授だったが、頻繁にウィーンへ出かけていたそうだ。

 したがって、この時期に2度、2人がウィーンで直接対話していた、という記録は信頼していいだろう。夏学期は4月から6月までの3ヵ月間で、その前後を合わせて3ヵ月から4ヵ月間、ウェーバーはウィーンに滞在していたことになる。

 2人はそれよりはるか以前から学問的な交流を続けてきた。19歳も離れているので、大学者ウェーバーが20代のシュンペーターの処女作『理論経済学の本質と主要内容』(1908)や『経済発展の理論』(1912)に注目したというところであろう。

ウツ病に苦しんだ
天才マックス・ウェーバー

 まずウェーバーの略歴を頭に入れていただきたい。

 マックス・ウェーバーは13歳で社会史の論文を2本書いた天才である。ハイデルベルク大学とベルリン大学で経済学、法学、歴史学、社会学を学び、ベルリン大学私講師を経て1893年にフライブルク大学経済学正教授となった。1897年にハイデルベルク大学教授へ転じ、猛烈な活動を始める。

 この年、父親と衝突してからウツ病に苦しむ。動悸や目眩に襲われ、教壇に立つことができなくなった。翌1898年には入院している。1899年の夏学期を休講し、冬学期前、ハイデルベルク大学に辞表を提出する。その後、休養のイタリア旅行などと入院を繰り返し、ようやく1903年に復調したが、教壇には立てずに年金付きの名誉教授となった。執筆活動は再び激しくなる。シュンペーターがウィーン大学に在学していたころである。

 1919年にミュンヘン大学教授として教壇に帰るまで、社会学、経済学、歴史学の論文を大量に書き、編集者として存在感は大きくなり、政治活動も活発に行なった。ドイツ敗戦、パリ講和会議、ワイマール共和国の成立と続く1918年から1919年にかけて、現代史を形作る大きな役割を果たしている。

 1918年4月にウィーン大学へ短期間の教授に就任したのは、教壇復帰の第一歩だったわけだ。

 ハインリヒ・ブラウンが編集していた「社会立法・統計雑誌」(Archiv fur Soziale Gesetzgebung und Sozialpolitik)をエドガー・ヤッフェが買い取り、ヴェルナー・ゾンバルトとマックス・ウェーバーが共同編集に参加して「社会科学・社会政策雑誌」(Archiv fur Sozialwissenschaft und Sozialpolitik ※注1)と改称して発刊されたのが1903年、ウェーバーが活動を再開した年である。

 この雑誌を舞台にウェーバーの代表作が世に出て行く。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」(※注2)が掲載されたのは1904年の同誌第20号と1905年の第21号だった。このころシュンペーターはウィーン大学で第7学期と第8学期を過ごし、ベーム=バヴェルクのゼミナールに在籍していた。

 ウェーバーがシュンペーターに注目し、ウェーバーが編集責任者を務める『社会経済学大綱』(Grundriss der Sozialokonomik)の執筆者の1人として26歳のシュンペーターを指名したのは1909年だったと思われる(後述)。『理論経済学の本質と主要内容』出版の翌年のことだ。