ウォーレン・バフェット ウォーレン・バフェット(1930~)には早くから金儲けに対する眼力が備わっていた。子ども時代の競馬の予想屋や新聞配達人から始まって、世界的な株式投資家にまで成長した。14歳のときには早くも大金を手にし、40エーカー(約5万坪)の農地を手に入れていた。

  バフェットは億万長者だ。しかし、それをひけらかすことはない。コカ・コーラを好んで飲み、ウクレレを弾きながら、つつましい生活を送っている。持っている財産からすると世界で最も裕福だというのに、どこにでもあるような住宅に住み、車は古いモデルに乗っている。バフェットこそ、金融の世界において最も影響力を持った人物であることは間違いない。

生いたち

  1952年のある日、野心に燃えた21歳の資産マネジャーが、一般の人向けに投資教室を開催するという小さな広告をオマハの地方新聞に載せた。人前に出て話をすることに慣れておくのが、自分のためになると考えたからだ。彼は100ドルを払ってデール・カーネギーの話し方教室に通い、自分の投資教室開催の準備をした。当日は20人の参加者があった。それから50年以上経った今日、彼が話をするとしたら、おそらくその会場にはとんでもない数の聴衆が殺到することだろう。この人物こそ、歴史上最も偉大な投資家ウォーレン・バフェットだった。

  1930年8月30日、ネブラスカ州オマハに生まれたウォーレン・バフェットは、小さいころから富を築く才能の片鱗を見せていた。6歳のとき、コカ・コーラの6缶パックを25セントで仕入れ、それを小分けにして1缶5セントで売っていた。若くして原因不明の病気で苦しんだときでさえ、病院のベッドで金持ちになる方法を考えていた。病気が治ると、ベッドで考えついたさまざまな商売に友人を誘い込んだ。

  まず、ゴルフのロストボールを拾い集め、それらをパッケージにして販売した。有力馬の情報を掲載したステイブルボーイセレクション紙を発行し、アメリカ最年少の競馬の予想屋にもなった。推奨した馬が勝ったかどうかの記録はないが、当時、後に優良株を見つけ出す能力がそこで発揮されていたとしたら、何人かはそのおかげで儲けたに違いない。

  12歳のとき、父親のハワード・バフェットが国会議員に当選し、家族はワシントンDCに移る。当初、この引っ越しに納得できなかったバフェットは、家出して抵抗した。しかしアメリカの首都に潜んでいる商売の可能性に気づき、その考えを改めた。一度に5紙の新聞を引き受け、毎朝なんと500部を配達して、一人前の男性の給料に匹敵する175ドルを稼いでいた。わずか14歳のときすでに1200ドルを稼ぎ出し、この資金でネブラスカ州にある農地40エーカーを手に入れ、農家に賃貸した。

成功への階段

  高校時代、店舗用ゲームマシンを修理して理髪店に設置するという別の商売を経験したあと、きちんとしたビジネス教育を受け、生来の商売の才能に磨きをかけることにした。そして名高いペンシルベニア大学のウォートンスクール・オブ・ファイナンス・アンド・コマースに入学する。これがバフェットにとってきわめて重要な転機となった。もしこのときに一生懸命勉強して卒業していれば、のちの投資企業、バークシャー・ハザウェイ社を自ら設立することはなかっただろう。