意思疎通が難しく、介護なしには生活できない重度の知的障害者。東京電力福島第1原発事故で、彼らがいかに凄惨な「流転」を繰り返したかをレポートする。(取材・文・撮影/毎日新聞記者 酒造 唯〈しゅぞう・ゆい〉)

 東京電力福島第1原発の事故では、いまも約16万人が避難生活を送っている。

 逃げ惑う避難者の中には、重度の知的障害を抱える人々や、それを支える職員がいた。コミュニケーションや意思疎通が取れず、生活に介助も必要な知的障害者は、非常時になると極めて弱い立場に置かれるのが実情だ。

 このレポートでは第1原発から6キロの富岡町、11キロの川内村にあった4障害者施設の利用者200人と職員50人が、いかに各地を「流転」したかに焦点を当てる。

 決死隊を組織し、ときに犠牲者も生みながら、250人は凄惨な流転を繰り返していた。

原発爆発。「まずい、逃げるべ」

「ドーン」。2011年3月12日午後3時半過ぎ、川内町にある知的障害者入所施設「あぶくま更生園」の2人の男性職員が、同時にものすごい爆発音を聞いた。福島第1原発1号機が最初に水素爆発を起こした瞬間だった。近くの高台から福島第1原発が見下ろせるような立地条件だったため、音がよく聞こえたのだ。地元の福島中央テレビは、1号機が白煙を上げる映像を流していた。

「まずいかもしんねから逃げるべ」。職員に動揺が走った。

 この日昼には富岡町の「東洋学園児童部・成人部」と「東洋育成園」が運営する三つの重度知的障害者入所施設が、あぶくま更生園に避難してきたばかりだった。第1原発の緊急事態発生を受け、原発から10キロ圏内に避難指示が出されたためだ。