職業を夢にしてはいけない!?
その先にある思いを夢にしよう

松田 為末さんご自身は、どのような夢を持っていたのですか。

燃え尽きる「夢」、幸せが続く「夢」為末 大(ためすえ・だい)
1978年広島県生まれ。2001年エドモントン世界選手権で、男子400mハードル日本人初となる銅メダルを獲得。さらに、2005年ヘルシンキ世界選手権でも銅メダルと、トラック種目で初めて日本人が世界大会で2度メダルを獲得するという快挙を達成。オリンピックはシドニー、アテネ、北京の3大会に出場。“侍ハードラー“の異名を持つトップアスリート。2003年に大阪ガスを退社し、プロに転向。2012年6月、大阪で行われた日本陸上競技選手権大会を最後に、25年間の現役生活に終止符を打った。Twitterフォロワー16万を超え「知的に語れるアスリート」として、言動にも注目が集まる。2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリートソサエティ」を設立。現在、代表理事を務めている。著書は、『走りながら考える』(ダイヤモンド社)、『諦める力』(プレジデント社)、『負けを生かす技術』(朝日新聞出版)等多数。

為末 小さいころからなんとなく「一番になりたい」と思っていました。ただ、うちは祖父が畳屋さんで、地元の広島でずっと生きていこうという家庭で育った。陸上で一番になろうと意識するようになったのは、中学校の先生に「チャンピオンになろう」といわれてからですね。

松田 当時から足は速かったのですか。

為末 はい、図抜けて速かったです。だから僕自身、このまま続けていればチャンピオンになっちゃうな、という予感はありました(笑)

松田 でも、どこかで現実にぶち当たるわけですよね。為末さん自身は、どの段階で何をあきらめて、自分の夢を絞っていったのですか。

為末 きっかけは、初めて行った世界大会かな。僕はそこで衝撃を二つ受けました。一つは、日本人が100メートルで勝つのは相当に難しいということ。もう一つは、日本一よりも世界一のほうがずっと世間に与えるインパクトが大きいということ。この二つを考えて、100メートルを諦めてハードルに転向したんです。

松田 世界大会まで行った100メートルを諦めることに抵抗はありませんでしたか?

為末 このときは自分の夢ごと変えた気がしましたね。でも、よく考えると、自分の夢は「世界で勝つこと」です。100メートルからハードルに転向したのは、その夢をかなえる手段を変えただけで、本当はがっかりするようなことじゃないんです。

松田 職業は夢じゃなくて、夢をかなえる手段の一つに過ぎないということですか。

為末 そうです。たとえばパティシエになりたい人がいたとします。職業を夢にしてしまうと、パティシエになれなくてサラリーマンになったとき、苦しい思いをすることになります。でも本当は、パティシエという夢の先に「人の喜ぶ顔が見たい」というような本質的な思いがあるはずなんです。すると、その思いはサラリーマンでもかなえられるのだから、パティシエを諦めたことを「夢が破れた」ととらえないほうがいい。

引退直前に気がついた
「みんなを驚かせたい」という思い

松田 為末さんご自身はプロ陸上選手を引退して、いまは別の世界で活動されていますよね。職業は変わったけど、職業の奥にある思いは変わっていないということでしょうか。

為末 引退する少し前くらいに、自分は陸上で何がしたかったのかと考えたんです。小中学生のころは「とにかく速く走りたい」、高校や大学では「世界で一番になりたい」と思って陸上をやっていましたが、振り返ってみると、その奥にあるのは「みんなをびっくりさせたい」という思いでした。

 ハードルでそれを実現することが難しくなくってきたので、30歳を過ぎたあたりで、陸上と違うところでそれを実現するのもいいなと。その意味では、やりたいことは変わっていません。

松田 人をびっくりさせるって、面白いですね。

為末 単純に驚かせることも好きですけど、驚きを通じて人の意識を変えてみたいという思いが強いです。たとえば野茂さんのメジャー挑戦の前と後では、みんなの意識が違いますよね。僕も陸上で少しはインパクトを与えられたと思いますが、野茂さんほどではない。だからまた別の世界で、人の意識が変わってしまうようなことをやってみたいです。