1970年代までに鉱物資源ブームはいったん収束し、石油価格の高騰も1980年代に入って反転した。その後世界の資源需要は長く低迷し、アフリカの経済は世界の底辺に沈み続けたのである。

 ところが、資源収入に支えられて一度拡大したアフリカ諸国の消費はすぐには縮小されなかった。若いアフリカの政府には、自ら進んで緊縮政策を実施に移す、強い政治的基盤がなかったからである。そのために、多くのアフリカ諸国が国外から資金を借り入れて消費的支出を継続させ、結果として多額の債務を抱えることになった。1980年代に始められた世界銀行等による構造調整プログラムは、消費的支出の切りつめを求め、債務問題の解決を目指したものだと言ってよい。

 ただ、構造調整政策は、単なる緊縮政策とは違った。その特徴は貿易自由化と市場競争原理の導入により、国内生産を拡大させ、それによって経済成長とともに経済の均衡を実現しようとするところにあった。その目論みどおりであれば、需要が国内生産によって満たされることになる。

 しかし、結末は違った。結局アフリカ諸国は、緊縮政策に自由化や民営化の負の影響が重なり、国内の農業や製造業を発展させることができなかった。

 アフリカの「脱工業化」の懸念がささやかれ始めたのはこの頃である。構造調整政策は経済の均衡を回復させることはなく、アフリカ諸国は膨張する債務に、21世紀に至るまで苦しむことになった。現在のアフリカの成長面での浮上には、特に西欧諸国の主導で、債務返済の重しが取り除かれたことも寄与している。

「脱工業化」の逆転に向けて

 1990年代、援助の理念は大きく転換し、MDGsに見られるように、援助側の関心は、個々人の貧困の削減に特化していった。それは市場経済化や政府のスリム化が世界で不可逆的に進むなか、能力の乏しいアフリカの政府の身の丈に合わせて、教育や保健など最低限の分野を選択してリソースを集中させることでもあった。そして、それは構造調整に始まる試行錯誤を経て、産業振興への関心が放棄されたことをも意味していた。

 保護貿易を通じた育成がますます難しくなる状況下で、アフリカの多数の国は実質的に産業振興政策を持たない状況に陥ったのである。先進国のなかで最も巨額の債権放棄を迫られた日本は、唯一「経済成長を通じた貧困削減」を唱え、そうした方向性に違和感を示した。

 アフリカが今、最も必要としているものは、まさに経済成長を貧困削減につなげることである。だが、上のように唱えた日本も、過去5回もTICADを開きながら、その回路を築き上げるためのビジョンを提示できたわけではない。

 あるべき政策の目標は、アフリカ諸国内の農業・製造業の発展を図り、「脱工業化」の流れを逆転させることである。そのために何をしたらよいのだろうか。