豊田英二

 もし豊田英二が一族の経営に参加していなければ、トヨタは自動車工業よりも繊維工業のほうで有名な名前になっていたかもしれない。現在では、トヨタの名前は世界中で高品質の自動車の代名詞になっている。

 豊田英二は織機の製造会社を母体にして、そこから一流の自動車企業を育て上げた功労者だ。

 1936年に豊田自動織機製作所に入社すると、優秀なエンジニアの採用と製造部門の整備を任された。

 トヨタが飛躍したのは、1950年代にフォードのリバールージュ工場を見学したのがきっかけだった。それは本人にとって啓示のようなものだった。アメリカ最高の生産プロセスと、自分が考える独自の革新的生産方式とを融合させようという決意を抱いて日本に帰国する。その結果生まれたのがトヨタの生産システムだ。

 頑固なまでの品質の追求によって、トヨタは自動車製造の先頭を走るようになる。1966年のカローラ、1989年のレクサスなど、導入したモデルを次々に成功させることによって、同社は世界的企業への道を切り開いてきた。

 豊田は1967年に同社の社長となり、1994年に経営の一線から退いた。

生いたち

 豊田英二が産業界に身を投じたのは自然なことだった。1913年9月12日に生まれ、子ども時代のほとんどを父親が経営する名古屋近郊の織機工場ですごしている。つまり幼年期から、事業経営と機械装置に囲まれた環境にいたのである。

 織機の事業を推進したのは豊田のおじにあたる豊田佐吉だった。佐吉の職業は大工で、発明家の才覚があった。1929年には、イギリスの企業プラットブラザーズが、佐吉の発明した織機の権利を10万ポンドで買い取っている。佐吉はこの資金を自動車の製造に振り向けた。

 家業の性質からすれば自然な流れで、豊田英二は東京大学工学部機械科に入学する。1933年に、佐吉の長男でいとこの豊田喜一郎が豊田自動織機製作所に自動車部をつくった。東大在学中からその仕事を手伝った英二は、1936年に大学を卒業すると同時に豊田自動織機製作所に入社した。同年、豊田自動織機製作所は「トヨタ」マークを制定、翌1937年に自動車部が分離独立してトヨタ自動車工業が設立された。