母親がわざわざオーストリア第2の大都会グラーツに移り住んだのは、シュンペーターの教育問題にあったらしい。つまり、父親亡き後、20代半ばの母親はシュンペーターを立派に育て、一流の教育を受けさせたかったのだろう。

 シュンペーターの伝記を書いたロバート・アレン先生によれば、夫、つまりシュンペーターの父親の没後、わずか1ヵ月でイフラヴァの彼女の父親が死去し、翌1888年4月には母親(シュンペーターの祖母)も亡くなった。実家の資産は彼女の弟妹と相続し、その資金とともにシュンペーターの教育に賭けることになったという(注1)。

 どうしてグラーツなのか定かではないが、アレン先生は、ウィーンではコストがかかりすぎるので、第2の都市グラーツにしたのだろうと推測している。2007年にシュンペーターの評伝を著したトマス・マクロウ先生もほぼ同じ見解だった。マクロウ先生は、母親はドイツ語を母語とする市民が15万人おり、チェスチュから南へ480キロ、帝都ウィーンから南西へ224キロのグラーツならば彼女自身、そしてシュンペーターにもチャンスが広がると考えたのだろう、と述べている(注2)。

 アレン先生とマクロウ先生の見解にはあまり根拠となる資料が付いていないので、あくまでも両先生の推測だが、4歳から5歳のシュンペーターは賢く、母親が大きな期待を寄せるに足る頭の良さを発揮していたのであろう。これは筆者の推測である。

地元チェコ人とドイツ人の反目

 シュンペーター家も母親の実家も、モラヴィア(現チェコ)に代々住んできたドイツ人だ。1888年ごろのハプスブルク帝国、なかんずくチェコ人とドイツ人の関係を再び考えなければならない。1848年革命が欧州に吹き荒れ、ウィーンでもプラハでも共和制を目指すデモ隊が繰り出したが、ハプスブルク家はなんとか武力で鎮圧する。しかし、ハプスブルク領内に民族主義が台頭し、新聞・雑誌が増え、産業革命を背景に勃興する市民階層も厚くなり、王家はけっきょく自由化を進めることになる。

 1867年にオーストリア-ハンガリー二重帝国となり、ハンガリーの権利が大きくなると、当然のことながら次はチェコだ、という世論が巻き起こる。19世紀末、チェコでは帝政オーストリアのドイツ人と地元チェコ人の反目が目立つようになる。この時期の状況を描いた書物はいくつかあるが、1891年にプラハで生まれたドイツ人の歴史家ハンス・コーンの『ハプスブルク帝国史入門』(注3)にはこう書かれている。