前編では原宿が「HARAJUKU」として認知され、たくさんの企業がHARAJUKUに注目し始め、新店が続々とオープンしている実態をお伝えしました。人とモノ、コトが集まり世界に向けて発信される「HARAJUKU Kawaii カルチャー」はなぜ原宿で生まれたのでしょうか。原宿の持つ独特なカルチャーを知るにはその歴史を理解することが必要です。そしてそれを知ることで、マーケティングに有効なヒントを得ることができます。後編では原宿の歴史、これからの「HARAJUKU Kawaiiカルチャー」の広がりについてまとめます。

かつては狸や狐も住んでいた
田畑広がる長閑な街だった原宿

原点は東京オリンピック!?<br />Kawaiiカルチャーを生んだ原宿にある3つの要素【後編】流行りのファッションに身を包んだ若者が買い物を楽しむ光景のなかでは、東郷神社は“浮いた”存在として映る Photo:DOL

 話は1940年代に遡ります。

 当時の原宿はまだ原宿とも呼ばれておらず、文教地区でもありませんでした。文教地区とは都市計画法で定める特別用途地域のことで、学校や図書館、博物館などが集まっていて、工場や風俗店などを作ることが規制されている地区のことです。原宿が文教地区に認定される1957年以前は、原宿は田畑が広がる田舎の村のようなところでした。

 東郷神社の周辺は森で、竹下通り周辺には狸や狐もいたということです。時代小説などを読むと原宿が田舎だったことがわかる文章によく出合います。

 当時の原宿の中心地は、現在の裏原宿(通称、ウラハラ)といわれる地区で、通称・プロペラ通り(現在の「穏田仲通り」)と言われている通りがメインストリートでした。「穏田」は、この地区の昔の地名です。

 その後、原宿は文教地区に認定され、風俗店などを排除し、他の繁華街とは異なった発展の歴史を経てきました。

 そのなかでも大きなきっかけとなったのは原宿年表にもありますが、1964年に旧・アメリカ軍の宿舎「ワシントンハイツ」(現在の代々木公園)が東京オリンピックの選手村として再生されてからのことです。これが契機となり、原宿にたくさんの外国人が集まるようになり、そのファッションなどをマネた「原宿族」(原宿で自動車を乗り回す若者達の総称)が出現するようになりました。