大川小検証委が初めて当日の避難行動を議論 <br />9ヵ月目にしてようやく遺族と意見交換も意見交換の冒頭、室﨑委員長に渡す公開質問状を手にした遺族の佐藤敏郎さんが立ち上がり、「何も誰も言わないでこの検証を進めていいのかと思った」と話した
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第1回の検証委員会で、このようなやりとりができていたら、どんなに良かったことだろう。東日本大震災の大津波で、児童74人、教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校の検証が始まって9ヵ月。11月30日に行われた第7回会合で、初めて当日の校庭での約50分間の状況についての議論が行われ、当初の予定を急遽変更して、検証委と遺族との初の「意見交換」が持たれた。今頃になって遺族との話し合いが実現した背景には、遺族側の主張に検証委が耳を傾けようとしない姿勢に対し、遺族が強く抗議したある出来事があった。

生存教諭の聞き取り内容が明らかに
2011年4月の証言との食い違いも

 今回の会合で明らかにされた中で特に注目されたのは、現場にいて児童4人とともに生き残った、現在休職中のA教諭の供述だ。

 検証委は、これまでA教諭に対して複数回、計約5時間にわたる聞き取りを行ったことを認めた。

 検証委によれば、聞き取りにあたって、A教諭は自身で書いた手記を提出。主治医の立会いの下、1回につき最長3時間弱の聴き取りを行ったという。

大川小検証委が初めて当日の避難行動を議論 <br />9ヵ月目にしてようやく遺族と意見交換も検証委員会で配付された資料。今回初めて生存教諭への聞き取りを行ったことが公式に明かされた
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 津波が来る直前、A教諭は、校舎内の2階に避難できる場所の目安を考えて、渡り廊下から体育館に移動。体育館入口から校庭に出た。

 その際、児童の移動はすでに始まっていて、先頭は学校の向かいにある釜谷交流会館の駐車場付近、最後尾が校庭のタイヤの遊具付近にいて、移動している児童以外は、校庭に人影はなかったとしている。

 A教諭は、避難する列を小走りで追い、付近にいた成人(特定できない)に「どこへ向かうのか?」と聞いたところ、「三角地帯へ移動することにした」という。

 列の最後尾付近にいたA教諭は、釜谷交流会館の駐車場から出た辺りか、その少し先辺りにいた。少し前まで走って先に進んでいた児童らに大声で「こっちだ、こっちた!山だ!山だ!」と声をかけ、これに気づいた数人の児童が山へ走り出したのを見て、A教諭も叫びながら山へ駆け上がったとしている。

 2011年4月9日、石巻市教委の第1回保護者説明会で、A教諭は「山の斜面についたときに杉の木が2本倒れてきてはさまる形になり、波をかぶった」などと証言しているが、このときの報告とは食い違っている。

 その後の遺族との意見交換会の中でも、遺族から「A教諭の上着のポケットに入れていた携帯電話が(津波にのまれて)ぬれたら、(震災4日後の)3月15日に当時の校長へメールを送ることはできない。A教諭の証言は矛盾していて、科学的に解明することは難しくないと思う」などと疑問が出された。

 これに対し、検証委員会は「A教諭が津波にぬれたかどうかについては、まだわからない」としている。

 また、遺族たちが石巻市教委側から何度も受けてきた「地震直後、裏山の木がバキバキと倒れるような音がした」という説明についても、検証委は「正確ではなかった」と認定した。