日本酒「獺祭」のブランドを確立する以前の旭酒造は、低迷から脱しようともがき苦しみました。既存の製品をテコ入れしたところで、一瞬売上が上がっても長続きはしません。そこで、肝心の酒造りを一新しようと決心します。しかし、酒造りは一般的に、冬場のみ酒蔵にやってくる技術集団の杜氏と蔵人に任せるもの。旭酒造がそうした業界の慣習にとらわれず、社員のみで、しかも冬場のみでなく一年中酒造りのできる体制を構築するまでは、まさに山あり谷ありでした…。2023年、米国での日本酒製造に乗り出した旭酒造が、まだ山口県の四番手、五番手だった当時のお話を、桜井博志会長の著書『逆境経営』より振り返ります。(初出:2014年1月15日)

獺祭でなく普通酒を造っていたころ旭酒造・桜井会長が考えたこと:「普通」はすなわち「負け」である【書籍オンライン編集部セレクション】

 私が社長になったころの旭酒造にとって、酒蔵商売の“正攻法”とは、一生懸命に酒屋さんを回って人間関係を築き、酒を売ってもらうことにありました。それが、一般的な酒蔵のスタイルだったのです。とにかく「ある(できている)酒を売る」のが基本スタンスで、「良い酒を造る」という視点は皆無で、冬場の仕込み時期だけくる杜氏(酒造りの棟梁)に任せきりなのです。

 今でこそ純米大吟醸しか造らない旭酒造も、私が社長に就いた直後の主力製品は普通酒でした。当時は酒に等級があって、1級酒以上は大手メーカーの世界であり、地方メーカーはもっぱら2級酒を造っていて、品質は二の次でした。

 旭酒造もご多分にもれず1級、2級酒を造っていましたが、良質な普通酒を造るには、ある一定量以上は量産しないとコスト高になってしまいます。スケールメリットの得られる最低石高として、ざっと5000石(1.8リットル瓶で50万本)程度はいるでしょう。むろん、小さい酒蔵でも、コストを度外視して良質な普通酒を造ることは不可能ではありません。しかし、それには従業員の給与を低いまま据え置くことが条件になります。

 うちが、そこまで無理をして普通酒を造り続けて、本当に社会的に価値があるのか?

 その点、小規模な仕込みでないと高品質が保ちにくい大吟醸なら、小さな酒蔵であることを逆に強みにできる。無理せず、高品質な吟醸酒をそれなりの価格でお客様に提供できるわけです。

 酒蔵といえども企業です。企業である限り、社会に貢献しなければ存続する価値はない。私は、大吟醸づくりに挑戦することにしました。
 勇気を持って「普通」を捨てることを決断したのです。

 ただし、当然ながら、大吟醸造りの難易度は高い。初めからうまくいくはずがありません。

 教科書どおりに言えば、酒米の外側を50%以上磨いて造ります(米の外側にあるタンパク質や栄養価値が残ると、酒の風味を損ねるので、その部分を削ることを「精白」、酒に使う部分の比率を「精米歩合」で表します。削れば削るほど、澄み切った味になります)。品質からいうと、初めて完成した酒は何とも珍妙な、大吟醸とはいえそうにない味がしました。

 さっそく造った酒については、山口県の食品工業技術センターや、お隣の広島県国税局鑑定官室という酒の技術指導をするところにも意見を聞きに行きました。「この酒は、貯蔵しても良くなることはないだろう」と指摘され、そのころ流行り始めていた、熱殺菌しない「生酒」として売ることにしました。

話題先行でタンク3本分完売

 この「生酒」が山口県では当時2番目に出たことや、つぶれそうだと思われていた酒蔵が生酒を出したという話題性から、テレビ局や新聞社が面白がって取材にきました。そのお陰もあって、ひどい酒だったのですが、タンク3本分が売れてしまった。数字は上がっても、とてもみなさんに足を向けて寝られない思いでした。

 売り上げがたっても、眠れない日々が続くとは…。

 こんなことは長続きしない。
 もっと根本的なことから、変えなければいけない。

 初めての「変革」は、大きな気づきと、次なる決意をもたらしてくれました。

「徹底的に『美味しい酒』を造ろう」
 それは、挑戦という名の、さらなる困難に足を踏み入れた瞬間でした。

 ところが、杜氏に「なんでうちの酒は、よその大吟醸みたいにならないの」と尋ねると、ここでもまた「とにかく、大吟醸造りは難しい」「とにかく大変だ」等々、わけのわからない返事が返ってきます。

 冒頭にも述べましたが、酒造りは一般的に、製造最高責任者である杜氏と、その下で働く蔵人たちの職人集団で行われ、オーナーかつ経営者である酒蔵は関わりません。杜氏は農家などによる完全な請負業で、仕込みは本業が暇な冬季に限定されるので、農閑期に入る雪国や山村からの出稼ぎ兼業が大半です。

 杜氏は地域ごとに集団をなしています。旭酒造に来てもらっていた杜氏は、大津杜氏といって、山口県長門市近郊の農家を中心とする杜氏集団に属し、そのころは若手の杜氏がいると評判でした。

 にもかかわらず、「美味しい酒」ができないのはなぜだろう。素朴な疑問にぶつかりました。

業界誌の記事をきっかけに始まった、小さな酒蔵の「大改革」

 残念ながら、今の杜氏に任せていたのでは、いつまでたっても大吟醸はできない。新米の酒蔵社長だった私にも、「うちの杜氏は吟醸造りがわかっていない」ことだけは、よくわかりました。

 生酒の一件から、「旭酒造は面白い取り組みをする」と思った人が、ある但馬杜氏を紹介してくれたので、翌年から来てもらうことになりました。大変優秀な人で、その後の私たちの酒造りの基礎をつくってくれたと思います。

 その頃、<磯自慢>や<開運><初亀>など、よい吟醸酒が静岡県発で多数ありました。それを下支えしていた、静岡にある工業技術センターの河村傳兵衛先生が、とある業界誌に『静岡県の大吟醸造り』というリポートを発表されていたのです。記事をみた瞬間、背筋に電流が走りました。

 まさに、造りたかったものはこれだ!
 さっそく、その記事を新しい杜氏に渡し「おやっさん(杜氏のこと)、この通りに造ろうよ」と言って、造ってみたのでした。

 その年から、ようやく大吟醸らしきものになりました。
 恥ずかしながら、私はそれはもう鼻高々で、酒造りはテクノロジーやノウハウがあれば、物理的にはいける! などと思い始めていました。
 本当はそうじゃない。実際の苦労はここから始まったのですが…。しかし、この小さな一歩が、現在の<獺祭>開発という「大きな前進」につながっていったのでした。

 そして同じく、この頃から、「酒造りに対する権限は杜氏が持ち、経営陣は口を出さず販売に徹する」のが一般的な日本酒業界で、掟破りともいえる「技術情報などは社長(私)が集めて、杜氏がそれを実行する」という珍しい生産体制を確立し始めたのです。

 当初、杜氏は「受け入れがたいけど、仕方がない」と半ば呆れ顔でしたが、背に腹は代えられません。この小さな酒蔵の歴史をひっくり返すほどの「大改革」が「社員による酒造り」だったのです。こうして、現在の旭酒造の生産体制につながる下地ができていったのでした。

社会の変化を肌で実感

 私は1950(昭和25)年生まれで、小学校時代のお酒1升の値段は約500円でした。大工さん1日の日当で、やっと2級酒が1升買えます。今なら、1日の日当分あれば、ディスカウントストアあたりで、安いお酒がおそらく30~40本は買えるでしょう。小遣い程度あれば、すぐアルコール中毒になれますが、昔は、女房・子どもを質に入れても、それほど大量に飲むのは難しい時代でした。
 つまり、酒のありがたみや飲み方は、変わってきているのです。酒造りも変わらなきゃいけない、そう思い始めていました。

 世の中も少しずつ変わっていきました。

 有難かったのが、宅配便です。それまでは、1升瓶なら最低でも1500本積んでコンテナで送るか、小口は駅留めの貨物便で送っていました。それが1箱どころか1本からでも、全国に配送できるようになったのです。

 もうひとつは、ITの発展です。
 当たり前のことですが、私どものような中小企業にとっても、これは画期的でした。青焼きでなくコピー機が買える価格になりましたし、ワープロはつぶれそうな酒蔵でも買えました。今やインターネットを通じて、海外のお客様にも直接発信できます。

 私どもが毎日のように「売れない」と言ってもがいているあいだに、社会は大きく変わってきていたのです。