パナソニックは昨年10月、2013年度末にプラズマテレビ事業から撤退することを発表。プラズマパネル工場を誘致した兵庫県尼崎市では、地元経済への影響や工場の跡地の再利用を懸念する声が早くも噴出している。人口減少に悩む工業都市がどのようにプラズマパネル工場を誘致し、そこから何を得ようとしていたのか。尼崎市とパナソニックの10年を追う。(取材・文/ジャーナリスト 仲野博文)

昨年10月にプラズマ撤退を決定
14年3月に事業活動停止予定

人口減・空洞化に追い打ちかけるプラズマ撤退 <br />尼崎市がパナソニックと歩んだ10年間の悲喜交々なかの・ひろふみ
ジャーナリスト。甲南大学卒業、米エマーソン大学でジャーナリズムの修士号を取得。ワシントンDCで日本の報道機関に勤務後、フリーに転身。2007年冬まで、日本のメディアに向けてアメリカの様々な情報を発信する。08年より東京を拠点にジャーナリストとしての活動を開始。アメリカや西ヨーロッパの軍事・犯罪・人種問題を得意とする。

 2013年10月9日、各メディアは一斉にパナソニックがプラズマテレビ向けパネル(以下PDP)生産を2013年度末(2014年3月末)で打ち切ると報じた。以前から巨額赤字の一因と指摘され、事業継続そのものが不安視されてきたPDP事業だが、パナソニックはついに事業の打ち切りを決断。これにより、プラズマテレビを生産する国内メーカーはゼロとなる。

 報道があった同月末のパナソニックの正式発表によると、2013年12月末にPDP生産を全て終了し、2014年3月末で尼崎市にある第3工場、第4工場、第5工場の事業活動も停止される。現在はすでに残務処理のみが行われ、2010年度には年間752万台の生産台数をほこった世界最大のPDP工場群だが、周辺に最盛期の面影はもはや存在しない。

 総投資額約4000億円にも上った、パナソニックによる尼崎市での巨大プロジェクトが動き出したのは約10年前の04年5月のことだった。

 まず、同社は子会社を通じて土地の所有者と定期借地権契約を結んだ。第3、第4工場が建てられた土地は関西電力が所有。第5工場が建てられた土地は尼崎市と兵庫県が所有する。尼崎市経済活性対策課の岸本弘明課長が土地の有効利用を目指していた当時の自治体側の事情を説明する。

「P5(第5工場)のある土地は県と市が所有している。もともとこの一帯には高炉が多くあったが、時代と共に撤退が相次いだ。遊休地の再活用を考えていた矢先、阪神大震災が発生した。これを機に区画整理が始まり、県と市が主導で遊休地を買い取ることになった。土地を買い取った後も様々な活用法が議論されたが、最終的にPDP工場を建てることになった」

 尼崎市の湾岸部(ベイエリア)に建てられたパナソニックのPDP工場は、先に大阪府茨木市に2棟のPDP工場が作られていたことから、第3、第4、第5工場と呼ばれていた。

 2005年9月に第3工場の操業がスタートし、2年後の2007年6月には第4工場が操業開始。その2年後の2009年11月には第5工場も操業を開始し、3棟合計の土地面積が約38万平方メートル(東京ドーム約8個分)に及ぶハイテク工場群が誕生した。