逸話の数だけ、人は大きくなるのでしょうか。誰もがうらやむ作家に愛され、天ぷら名人の教えを受け、「松翁」にはその仕事に惚れる上客が集まりました。江戸前のオーラは粋なものです。

(1)店のオーラ
客が店の顔をつくる

 その客との出会いが、蕎麦屋の道に力を与えたのかもしれません。

 「松翁」の亭主、小野寺松夫さんが蕎麦屋を興した時は31歳でした。

 開業したての頃、一人の客が開店前に静かに入ってきました。当然、亭主は仕込みの真っ最中でした。

猿楽町「松翁」――作家が愛した江戸蕎麦の、余情を楽しむ
「松翁」の定番の2色もり、この日は並み蕎麦と茶蕎麦。山を4つ作るのが特徴です。

 誰かを待っているのか、落ち着かない風でしたが、そのうち御茶ノ水「山の上ホテル」のボーイさんが来て、二人で蕎麦を何枚か手繰(たぐ)って帰ったそうです。

 その客はそれからも決まったように開店前やってきて、同じボーイさんを呼んで料理と蕎麦を食べに来るようになりました。仕込み中なので、丁寧な応対もできなかったのですが、客は松翁のお得意になりました。

 その客が“作家の池波正太郎氏”だと常連に教えられるまで、3年ほどは知らなかったそうです。もう27年前の話です。

 「先生とも不思議なご縁でした」小野寺さんがその当時を振り返ります。

 蕎麦屋になったといっても当時は、苦心惨憺していたといいます。

猿楽町「松翁」――作家が愛した江戸蕎麦の、余情を楽しむ
蕎麦前には必ず注文が入る人気の穴子の煮こごり、出汁(だし)味が効いた深い味わい。

 小野寺さんは大学を卒業して、同族会社のサラリーマンをしていました。しばらくするうちに勤め人の窮屈さに耐え切れず、ふと饂飩(うどん)屋にでもなろうと思ったそうです。

 父親が料理好きの趣味人でそのときは饂飩に凝っていて、それは町蕎麦屋をはるかに凌ぐ出来だったそうです。父親がこの程度のものを作れるのだから、自分も同じくらいには作れるに違いない、と思ったのです。

 直ぐにサラリーマンを捨て蕎麦屋に入りました。当時は饂飩単独営業の店はほとんど無く、饂飩の美味しい蕎麦屋を探したというわけです。

 蕎麦屋修業を4年ほど経て、今の店の近くに住居兼用の18人ほど入れる蕎麦屋を開店しました。

猿楽町「松翁」――作家が愛した江戸蕎麦の、余情を楽しむ
綺麗に磨かれた店内に開店前の緊張が走ります。右の店主、小野寺さんの気合が入る一瞬。
猿楽町「松翁」――作家が愛した江戸蕎麦の、余情を楽しむ
入り口横の水槽には、四季折々の魚介が泳ぐ。客はここから季節の移ろいを蕎麦屋に見ます。

 「開店早々くらいが一番面白かった」小野寺さんが笑います。

 小野寺さんは開店してからも、当時すでに有名だった蕎麦打ち名人、高橋さんの店「翁」に朝早く行って、打ち方の見学に通ったそうです。