国家総動員体制が強化され、重要産業統制法による国家社会主義経済が革新官僚によって突き進んでいくなか、日本蓄音器商会(コロムビア)から英米コロムビア資本が離脱し、日本産業(日産コンツェルンの持株会社)が買収した。1935年10月のことである。日本ビクター蓄音器の株も1937年6月に過半の株を買収することになる。重化学工業や鉱山、自動車産業を中心とする日産コンツェルンの総帥、鮎川義介の意思だったのだろうか。歌謡曲が両社から量産された昭和初期背後の経済史――。

日産コンツェルンの全容(1935年)

 鮎川義介(1880-1967)は長州・山口市の出身で、母親が井上馨(1836-1915)の姪に当たり、久原財閥の久原房之助(1869-1965)は義弟に当たる名家の出である。山口高等学校を経て東京帝国大学工学部を卒業後、芝浦製作所に工員で入社し、製造業を工場で働きながら観察した経営者だ。

 1911年には北九州で戸畑鋳物を創業し、事業家として台頭する。もちろん井上馨や久原財閥の支援があった。久原系企業の経営者を歴任し、1928年3月12日、久原財閥の本社に相当する久原鉱業社長に就任、同時に久原鉱業を日本産業へと社名変更し、当時は珍しい公開持株会社とした。久原房之助は政界に出ており、経営は行き詰っていたという。

 三井、三菱、住友などの財閥では、それぞれ持株会社は非公開で、同族支配のヘッドクォーターとしていた。莫大な富はファミリーの私有財産として蓄積された。鮎川は持株会社の株を公開し、広く投資家を集めた。現在のホールディング・カンパニーの形態に近い。

 戦後の財閥解体で日産コンツェルンは消滅しているが、現在も日産コンツェルンの系譜に連なる有名企業は数多い。

「経済雑誌ダイヤモンド」(現在の「週刊ダイヤモンド」)が1935年2月11日号で「日産コンツェルンの動向」と題して概要をまとめている。日本蓄音器商会(日蓄=コロムビア)買収の8カ月前の記事だ。

「日本産業の直系子会社は、現在のところ、十七社公称資本金二億六千六百万円、払込資本金一億九千八百万円で、このうち日産の投資額は一億四千四百万円に及び、払込資本額の七十二%を占めている」(「ダイヤモンド」1935年2月11日号)

 17社は以下のとおりである。カッコ内はその後の状況。

・日本炭鉱(日本鉱業へ統合)
・日本鉱業(現・JX日鉱日石金属)
・山田炭鉱(日本鉱業へ統合)
・日本産業護謨(現・兼松日産農林)
・日本産業自動車(現・日産自動車)
・共同漁業(現・日本水産)
・日立製作所
・日立電力(電力国家管理によって接収)
・中央土木(現・りんかい日産建設)
・帝国木材工業(現・兼松日産農林)
・大阪鉄工所(現・日立造船)
・日本産業汽船(日本郵船に統合)
・合同土地(現・物産不動産)
・日本合同工船(日本水産へ統合)
・日本捕鯨(日本水産へ統合)
・南米水産(日本水産へ統合)
・日本食料工業(現・日油)