滑らかな乳白色の輝きで世界の女性を魅了する――そんな真珠を広く一般の女性が手にできるようになったのは、一人の日本人の執念の賜物です。

ミキモトの創業者。世界で初めて真珠の養殖に成功し、世界中から「真珠王」と呼ばれた。美しい真珠を養殖する研究は晩年まで続けられた

朝日新聞社/時事通信フォト

 真珠養殖王として世界に知られた御木本幸吉は1858(安政5)年、志摩国鳥羽町浦大里(現・三重県鳥羽市)に生まれました。家業のうどん屋を手伝っていた幸吉は「このままでは、いつまでたってもうだつが上がらぬ」と、13歳にして青物の行商を始めています。

 20歳の頃には、横浜の外国商館で、輸出用の真珠が高値で取引されているのを見て、自ら天然真珠を扱うようになります。当時、希少な天然真珠は、欧米でダイヤモンドより高価な宝石として珍重されていました。やがて、真珠を宿すアコヤガイが、乱獲により絶滅の恐れがあることを知ります。そこで、故郷・志摩の海で、当時は不可能とされた真珠養殖に乗り出したのです。32歳でした。

 どんな固形物を核にし、アコヤガイのどこに入れるのか。まったく手探りの状態からのスタートでした。核を入れては数カ月後に貝を開いて観察する作業を繰り返す日々。借財が膨らみ、赤潮で養殖中のアコヤガイが全滅する災難にも見舞われました。

 粘り強い挑戦を続けること3年、ようやく半円真珠の養殖に成功しましたが、宝石としての価値が高いのは真円真珠です。幸吉は事態打開のため、歯科医師の桑原乙吉を高給でスカウトしました。歯科医師と真珠養殖、まるで畑違いですが、メスを巧みに使って歯肉を治療する桑原の技能が、真珠養殖の要となるアコヤガイへの核入れ作業に役立つと考えたのです。異業種の技術導入は見事に的中し、世界初の真円真珠の養殖に成功したのでした。

 1908(明治41)年、幸吉は真円真珠養殖法に関する特許を獲得すると、すぐさまロンドンに代理店を開設しました。この海外初進出を皮切りに、上海、ニューヨーク、パリへと、出店は矢継ぎ早でした。真珠価格の下落を嫌った英仏の宝石商たちは、「御木本の真珠は偽物だ」と訴訟を起こしましたが、幸吉は日本製品の信用と面目を懸けて外国の法廷で果敢に立ち向かい、勝訴して御木本の真珠を世界に広めていったのです。

誰もやったことのない仕事にこそ、やりがいがある。世界の何人も成功しなかった仕事を成し遂げるのが、日本の新事業家の栄えある使命じゃあるまいか

 今から1世紀も前、グローバル市場に打って出た御木本幸吉を支えたのは、故郷への尽きぬ想いと事業家としての心意気でした。

Maho Shibui
1971年生まれ。作家
(株)家計の総合相談センター顧問
94年立教大学経済学部経済学科卒業。
大手銀行、証券会社等を経て2000年に独立。
人材育成コンサルタントとして活躍。
12年、処女小説『ザ・ロスチャイルド』で、
第4回城山三郎経済小説大賞を受賞。 

 

 

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