人と接するときには、どのような心がけが大切なのだろうか。

 きちんと誠実に対応すること?
 絶対にウソをつかないこと?
 発言に責任を持つこと?

 いや、どれも間違いである。そういう性質を持っていることは、人間として美徳かもしれないが、相手にいいようにされてしまう危険が大きくなる。

度を越えた誠実さは
相手を図に乗らせる

 たとえば、誠実な人間が交渉相手である場合、私たちは、誠実な相手だからこそ、こちらもそれなりに誠意を持ってつきあおうとするより、

 「あいつは何でも言うことを聞くんだな、よし、少し無理を言ってやれ」

と思うのが普通である。つまり、図に乗らせてしまうのだ。誠実な人間は、相手が冗談で無理な注文を出してきても、それを“さらり”とかわすことができない。本気で考えすぎてしまうのだ。こうなると、無理難題を笑って拒絶することもできなくなり、どうしようもない状況へと追い込まれていく。

 大変に人当たりがよく、頼まれたことは何でも笑顔で引き受ける人物がいるとしよう。

 こういう人物は、たしかに好かれる。

 しかしまた、こういう人物は、上司や取引先からやたらに無理な仕事を押しつけられて、心身ともに磨滅させられていくものである。今はよくとも、彼の我慢は、いずれ限界をむかえる。こういう人物は、早晩、「燃えつき症候群」に陥るか、出勤恐怖症になるか、心筋梗塞で倒れるか、いずれかであろう。筆者も、“気がいい”ばかりに、上役から雑用を頼まれることが多く、仕事に嫌気が指している人たちをたくさん知っている。

 ポジティブな評価は、それほど気にしなくていい。イタリアの思想家マキャベリも『君主論』の中で次のように述べている。

 いろいろなよい気質を何もかもそなえている必要はない。しかし、そなえているように思わせることは必要である。慈悲深いとか、信義に厚いとか、人情があるとか、裏表がないとか、敬虔(けいけん)だと思わせることが必要である。

 それでいて、もしそのような態度を捨て去らなければならないときには、まったく逆の気質に転換できるような、また転換の策を心得ているような気構えが、つねにできていなくてはならない。

 つまりは、こういうことだ。

 他人にポジティブな評価をしてもらえるような「装い」は必要だが、本気でそのような人間になってはいけないのである。

 「彼って誠実な人だよね」とか「信用できる人だよね」と口の端にのぼるような努力はしてもいい。だが、必要とあれば、すぐにでも「不誠実」に豹変できるような気持ちだけは失わないことだ。