53歳。辞表は出せない

 沢井の頭のなかに辞表を出して、やめようという思いが不意に浮かんだ。30年近い会社生活のなかで、辞表を出そうと思ったことが過去に二度あった。これで三度目である。取締役候補といわれ、自らもひそかに任じていた期待が崩れ、屈辱感が心のなかに湧き上がっていた。さらに出向先が業績の悪い太宝工業ということも釈然としなかった。──これは明らかに左遷だ。しかもサラリーマン生活の最後の場面での左遷だ。俺はこんな処遇を受けるべきではない。

 だが、若いころに辞表を出そうと思ったときと違って、53歳となった今、会社をやめたら、この先どう食っていくのかと打算が働いた。家のローンが残っている。息子も娘も大学生で、カネ食い虫だ。
社長の話を聞きながら、沢井はあれこれ思い惑っていた。広い社長室の空気が重く固まって、沢井の肩にのしかかってくる。

 沢井はやおら口を開いた。

 「2年……、2年いただきたい。ひとつの会社をつぶすという重大な結論を出すのに、1年間というのは自信がありません。2年ください」
 「2年。2年間か」
 今度は梅田社長が眼を閉じて沈黙した。
 やがて、ゆっくり眼を開いた。

「いいだろう。2年やろう。だが、1年後、つまり来年の今ごろまでには、こちらから見ていても良い方向へ向かっているのか、そうでないのかがはっきりわかるようにしてもらいたい」
「わかりました。それぐらいのことはできるでしょう。しかし、つぶすかどうかの最終判断を下すのは2年後にしていただきます」
「よかろう。それじゃ頼んだよ。あ、それから君の片腕として経理部の藤村次長を取締役総務部長として出向させる。協力してしっかりやってくれ。今の総務部長の中野君は、今年の12月で定年だから、7月から半年間調査役という形で在籍させてもらう。よろしいな」
「結構です」

 辞表を出そうか、と迷いながら、しかし、やっぱり俺は妥協してしまったという嫌悪感があって、沢井の心は混乱していた。
 社長室を出て、デスクに帰るまで、廊下を歩きながら、沢井は混乱している自分の気持ちを平静に戻すように努めていた。部下たちにこの内示の内容を見抜かれてはならない。沢井は感情がすぐ表情に出るほうである。トイレに入って鏡に顔をうつしてみる。小林桂樹に似ているとよくいわれる顔が、険しくなっている。息を大きく吸って、身体をリラックスさせた。もう一度、顔を確認してから、デスクに戻った。

第2回につづく)


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