1920年3月、ドイツ第2次社会化委員会が招集された。委員の名簿にはシュンペーターの名前が載っている。1919年10月にオーストリア財務相を辞任したあと、ベルリンの第2次社会化委員会に出席していたのであろうか。母国オーストリアで社会化政策に反対したシュンペーターはどのように考えていたのだろうか。

 一方、シュンペーター辞任のきっかけをつくったイタリアの自動車会社フィアットは、この年(1920年3月から9月)、工場労働者によるストライキ、そして工場占拠闘争の舞台となり、重大な危機に陥っていた。

 シュンペーターが『経済発展の理論』(1912)で描いた英雄的企業者像を体現したような人物、ジョヴァンニ・アニェリ(1866-1945 フィアット社長)はどう行動したのだろうか。そしてトリノでアニェリに対峙していたマルクス主義思想家、アントニオ・グラムシ(1891-1937)の言動は?

 前回少し触れた以上のナゾを、今回は詳しく解いていきたいと思う。

社会化政策は消滅・・・
右派連立政権が成立へ

 ドイツ第2次社会化委員会の「委員名簿」が冊子として存在するわけではない。いや、あるのかもしれないが、あるとすればドイツ国立図書館だろう。しかし、引用している文献は3点ある。

(1)河野裕康「ヒルファディングと第2次社会化委員会」(2001★注1)、(2)美濃部亮吉『敗戦ドイツの復興過程』(1948★注2)、(3)有沢広巳『インフレーションと社会化』(1948★注3)である。

(1)河野先生は、Verhandlungen der Sozialisierungs-Kommission uber den Kohlenbergbau im Jahre 1920(「炭鉱に関する社会化委員会審議録」1920)を参照している。
(2)美濃部は(1)と同じ人名を挙げているので、参照した公文書は同じものかもしれないが、参考文献を記載していない。
(3)有沢も参考文献を挙げずに23名中7名を列記している。残りは不明。

 上記3つの文献を合わせてまとめると、第2次社会化委員会の委員構成はこういうことになる(肩書は3つの文献を参考にしたが、明らかな誤りは正した。判然としない人名もある)。