各種調査によると、食品を扱う宅配ビジネスの市場規模は拡大基調にある。生協や有機野菜などを扱う業者に加え、これまで店舗営業のみだったスーパーも、買い物客への宅配サービスを始めるようになった。背景には、女性の社会進出と高齢化・過疎化による「買い物弱者」の増加があると言われている。

 そんななか、昔からある「牛乳販売店」だけを取り出してみるとあまり元気がない。経済産業省の「商業統計」に基づく牛乳販売店の推移を見てみると、1976年には約2万1000事業所あったのが、2007年にはその半減以下の9045事業所にまで減っている。その後は調査されていないため数値は把握できないのだが、実際のところはどうなのか?

 詳しい事情を聞くために、首都圏郊外にある牛乳販売店を訪ねた。

30歳で会社を辞めて実家の牛乳屋へ
きっかけは“あの集団食中毒事件”

 対応していただいたのは、社長の神谷陽子さん(仮名、40代)だ。もとは両親が経営していた店を継いで、切り盛りしている。

 牛乳販売店といっても、住まいとは完全に切り離されたプレハブの営業所だ。JRの主要駅から車で30分以上かかる郊外にある。街道沿いの、民家もまばらな土地。昔ながらの自転車による配達は見るからに難しそうで、配達用の車両が数台、敷地内の広い駐車場にとまっていた。

「私が小さい頃というと昭和40年代になりますが、その頃はもちろん、配達に車なんか使いませんでした。カブって知ってます?」

 乗ったことはないが、見たことならある。

「普通の原付バイクだと馬力がなくてダメなんですが、カブだとかなりの牛乳を積めるので配達には便利なんです」

 当時の牛乳販売店はそれなりにいい商売だったのだろう。父方の兄弟はみな、同じ牛乳販売業を営んでいたそうだ。

「それと、子どもの頃はよく、喉が渇くと冷蔵庫から牛乳を出して飲んでいました。ほんと、水代わりでしたね」

 幼い頃は日曜日以外、毎日牛乳を配達していたため、家族みんなで遠出してどこかに遊びに行った、という記憶もあまりない。

 大学を卒業して会社員をしていた神谷さんが事業に加わるようになったきっかけは、2000年に起きた雪印の集団食中毒事件だったという。

「当時、うちは雪印の商品だけを専門に扱っていたんです。だけど、あの事件で解約が相次ぎ、壊滅的な打撃を受けてしまいました」