東海林太郎(1898-1972)は秋田中学(現在の秋田高校)を卒業すると、東京音楽学校(現・東京芸術大学)でヴァイオリンを専攻したかったらしい。実際に受験もしている。しかし、南満州鉄道(満鉄)建築課に勤務していた父親の反対で断念し、1年浪人して1917(大正6)年4月に早稲田大学商学部予科へ入学した。父親が満鉄に入社したのは1908年で、それまでは秋田県庁の職員だったそうだ。中学卒業時点で両親は満州に住んでおり、説得もままならなかったのだろう。

早稲田大学商学部で講師・佐野学に出会う

「専攻は商科です。予科一年から本科三年までの五年間、わたしが通した学問は『経済学原論』です。これは人間の欲望を追及したものですから、面白いですよ。/最初は、アメリカのウォーカーを、後にはシーガーを学びました。英語が得意だったので、学校で先生が講義する前に、その原書を読んでました。/大学二年の時、佐野学先生が早稲田に来たんです。ボルシェヴィズムの研究をされていました。まだ高畠素之先生がマルクスの『資本論』を翻訳される前でした。時世を反映して軍事教練の激しかった頃です。/大学の三年の頃、わたしは佐野先生のカバン持ちになってドイツに行くって内定してたんです。当時は音楽を忘れようとして一生懸命に勉強してましたから、みんなから「ガリ勉」だと言われたものですが、この時だけはみんなから羨ましがられました。/でもそのうち、先生はロシアに行っちまいました」(東海林太郎「今の歌手はみんな落第」、1969)。

 年譜(『一唱民楽』所収、1984)によると、東海林太郎の早稲田大学商学部予科入学は1917年4月、商学部(本科)卒業は22年3月、ただちに商学研究科(現・大学院)に進み、23年3月、1年で修了している。なお、第2次大戦前の旧制大学制度では、予科2年か3年で旧制高校水準の教育を行ない、本科で学部教育となる。東海林の入学時は大学部商科(予科)、本科進学時の1920年の大学令で「商科」から「商学部」となり、同時に「商学研究科」が設置されている。

 東海林太郎が学んだ「ウォーカー」とは、アマサ・ウォーカーかフランシス・アマサ・ウォーカーのことだろう。2人は米国の経済学者で、親子である。19世紀中葉から後半にかけて著書がいくつかある。英国流の古典派経済学者だったと思われる。

 もう一人、東海林が名前をあげている「シーガー」は、間違いなくヘンリー・シーガーである。シーガーは当時コロムビア大学教授で、社会保険の専門家だったが経済学の教科書も出版している。ベルリンとウィーンに留学経験があるので、ドイツ歴史学派とオーストリア学派の経済学を専攻していたはずだ。予科から本科1年までは、マルクス経済学には無縁の教科書を原書で読んでいたことがわかる。

 東海林太郎に決定的な影響を与えた佐野学(1892-1953)が商学部講師として早稲田に赴任したのは、年譜(『佐野学著作集第五巻』所収、1958)によると1920(大正9)年で、東海林の学部(本科)2年の年から「経済学」と「経済学史」を講じている。