この連載では以前、「特定秘密保護法」について論じた(第72回を参照のこと)。これは思いのほか反響があり、共同通信を通じて、「識者評論」をさまざまな地方紙に書かせてもらった。これらの論考を読んだ方々は、筆者が特定秘密保護法に反対の立場だと考えていると思う。しかし、よく読んでもらうとわかるのだが、実は、特定秘密保護法に反対と書いてはいない。

 論考の主旨は、特定秘密保護法の成立後に、日本のジャーナリズム・国民の本当の戦いが始まる、というものだ。ジャーナリズムは、「特定秘密保護法案が成立すると、逮捕を恐れて委縮し、国民の『知る権利』が失われる」と主張してきた。しかし、その真意が「法律が成立したらジャーナリズムは権力批判をやめる」ということであってはならない。

 ジャーナリズムには、国民に真実を伝えない権力の片棒を担いでいたという歴史がある。そして、歴史を根拠にした彼らの主張は、まるでジャーナリズムは権力の前には無力だと聴こえる。だが、歴史を教訓とするならば、「権力による情報統制がどんなに強まっても、ジャーナリズムは怯まず権力批判を続けなければならない」ということであるはずだ。たとえ、これから何人逮捕者を出すことになろうとも、権力に対して批判を続けるべきだということだ。

 英国にも、特定秘密保護法に相当する「公務秘密法」がある。しかし、ジャーナリストを有罪とした事例は過去ないという。英国のジャーナリストは、権力が言論統制を試みても、委縮することはない。また、国民が権力行使を不当だとみなした場合、政権は容赦なく次の選挙で敗れ、政権の座を失ってしまう。だから、英国では政権が権力濫用を安易にできないのだ。

 日本は戦後、特定秘密保護法のような法律を制定し、運用する経験を持っていない。成立した法律の内容に問題が多いのは言うまでもない。しかし、この法律は国家安全保障上、必要なものでもある。だから、完璧な法律ができないから絶対ダメというのではなく、まず法律自体は成立させるべきだ。その上で、ジャーナリズムなど国民の徹底した批判を継続し、権力濫用を許さず、実効性のある運用ができるものに法律を練り上げていくべきだ。これが筆者の論考の真意なのである。