淡谷のり子(1907-99)が母親と妹とともに青森市を出奔し、東洋音楽学校(のちの東京音楽大学)に入学したのは1923年だった。予科ピアノ科から声楽(ソプラノ)に転じ、クラシックを学んでいた。途中1年休学して画家のモデルで収入を得ていたが、復学して1929年に卒業している。

淡谷のり子も声楽家から流行歌手へ

 東洋音楽学校は、1907年に鈴木米次郎(1868-1940)が設立した私立の音楽学校である。鈴木は音楽取調掛に入学し、改組後の東京音楽学校を卒業している。井沢修二が校長だった時期である(連載第37回参照)。

 伊沢による西洋音楽の移入で唱歌教育を全国に展開していた国策にのっとり、鈴木米次郎が各地の音楽教諭を経て東京高等師範学校教授に就任したのが1903年。翌04年に教授職を辞任し、07年に東洋音楽学校を開校した。東洋音楽学校は戦後、短大、4年制大学を設置し、1969年に東京音楽大学へ改称している(武石みどり監修『音楽教育の礎』春秋社、2007による)。

服部良一と淡谷のり子が「ブルース」で席巻、<br />昭和戦前のジャズ・ソング全盛期を創出「淡谷のり子全曲集」(日本コロムビア、1992)のジャケット。「別れのブルース」など和製ブルースのヒット曲のほか、シャンソンやタンゴも収録されている

 淡谷のり子が卒業した1929年、日本ビクター蓄音器は設立2年を経過し、いち早く流行歌へ乗り出していた。先行していたレコード会社の日本蓄音器商会(日本コロムビア)も流行歌に本格参入し、競争が始まる。日本ポリドールやキングレコード(講談社)も次々に市場へ参入し、歌手、作詞家、作曲家は完全な人手不足となる。

 音楽学校でクラシックの基礎を学んだ声楽家は流行歌手の大きな供給源となっていた。淡谷のり子もクラシックに未練を残しながら、卒業後は稼げる流行歌手のオーディションに応募し、ポリドールやキングレコードで吹き込みを始め、浅草では映画館で歌い始めている。無声映画の時代なので、映画館はオーケストラ、弁士、指揮者、歌手を抱え、映画に合わせたサウンドを提供し、幕間にはライブも催していたのである。

「昭和六(1931)年の一月、私はコロムビアと契約をした。コロムビアには、前に一度吹込んだことがあった。(略)コロムビアとの条件は、専属料として月三百円のほかに、吹込料が三〇円、印税については触れず、だいたい終身契約の形だった。入社して半年もたたないうちに『私このごろ憂鬱よ』(高橋掬太郎作詞・古賀政男作曲)のヒット曲が出た。昭和六年の六月であった。/私は、古賀さんの曲が好きだった。『酒は涙か溜息か』でも『影を慕いて』でも、あのギターにからむ哀切な調子が心に沁むものがあった」(淡谷のり子『ブルースのこころ』(淡谷のり子、ほるぷ、1980)

「私このごろ憂鬱よ」の表記は、正しくは「私此頃憂鬱よ」と、漢字が並ぶ。この曲は藤山一郎の「酒は涙か溜息か」のB面として発売されている。このとき藤山一郎は東京音楽学校の学生で、顔を出さない覆面歌手だった。その後、東京音楽学校当局にばれて停学処分をくらっている。

 淡谷のり子は終身契約で月300円の固定給だったというわけだが、当時、日本の平均賃金は月54.23円(『近現代日本経済史要覧・補訂版』)だったから、かなり高給ではある。ただし、印税契約を結んでいない。