カール・メンガーとはどのような人物だったのか、京都大学経済学部教授・八木紀一郎先生の名著『オーストリアの経済思想』(※注1)に詳しく描かれているので、関心のある方はぜひお読みいただきたい。メンガーの生地まで訪ねておられ、臨場感に富み、専門書のカテゴリーを超えた味わい深い書物である。

 私たちはインターネットで生地に行ってみよう。カール・メンガーは1840年、ガリチア(Galicia)のノヴィ・ソンチ(Nowy Sacz)にドイツ人貴族の子弟として生まれている。3人兄弟の2番目だ。3人ともウィーン大学法-国家学部に入っている。

 長男マックス(マクシミリアン1838-1911)は長じて自由主義の政治家に、3男アントン(1841-1906)は法曹社会主義者にしてウィーン大学教授、という超秀才で年子の3兄弟である。

 ガリチアは現在のウクライナ南西部とポーランドの一部で、スロヴァキアとの国境に近い地域だが、現在のノヴィ・ソンチはポーランドの都市であり、メンガーが生まれた当時はハプスブルク帝国の領地で、ドイツ人がたくさん住んでいた。

ノヴィ・ソンチ市のホームページはhttp://www.nowysacz.pl/ (グーグル・マップでNowy Saczを検索すると出てくるのでご覧ください。位置を確かめられます)

役人か?新聞記者か?
カール・メンガーの正体は?

 カール・メンガーは1859年にウィーン大学法-国家学部に入学するが、1年後にプラハ大学へ移り、3年間学んで卒業する。平凡社『世界大百科事典』には、卒業後「総理府の新聞局に入った。」と書かれている。一方、書物によっては「新聞記者として約10年間活動」という趣旨のことが書いてあったり、「政府にも勤務」と書いてあったりと、どれが正しいかよくわからない。

 なぜ官吏でかつ新聞記者なのかさっぱり理解できなかったが、八木先生の『オーストリアの経済思想』第Ⅰ部第5章「カールのジャーナリズム経験」を読んでようやくわかった。

 本書によれば、メンガーの新聞記者歴(1863-1875)はこうなっている。

 1)レンベルガー・ツァイトゥンク(レンベルク新聞)記者(※注2)
 2)アウグスブルガー、ボヘミア、ボートシャフター通信員
 3)ボートシャフター記者
 4)プレッセ記者
 5)ウィーナー・タークブラット(ウィーン日報)発行人、編集長
 6)ウィーナー・ツァイトゥンク(ウィーン新聞)経済欄編集者
 7)デバッテ記者
 8)ターゲスプレッセ記者
 9)アルゲマイネ・フォルクスツァイトゥンク編集長
10)ウィーナー・ツァイトゥンク(ウィーン新聞)記者

 約10年で10紙以上だからものすごい記者歴である。自分で創刊した「ウィーン日報」は1年後に政府へ売却する。「ウィーン新聞」はそもそも政府所有の新聞なのだそうだ。

 この中でもっとも有名なのは「ウィーン新聞」で、創刊はなんと1703年。現在も隆々たる世界最古の新聞である。「ウィーン新聞」は1724年に官報となり、以後、政府の機関紙となった(※注3)。現在はもちろん民間の新聞だ。