宮城県南三陸町。2011年3月11日の東日本大震災で壊滅的な被害を受けたこの町にも「敗れざる人々」がいる。地元経済は震災の前から、すでに行き詰まりつつあった。水産加工以外にこれといった産業もなく、若者たちは仙台や東京に出ていく。漁業は後継者難に直面していた。そこに、とどめを刺すかのような津波。「もうだめだ」と諦めてもおかしくない状況の中、それでも未来を信じて歩を進めている人々の姿を追う。

今でもあのおばあちゃんがいる気がする

 あの日、阿部民子は海岸近くのワカメの作業場にいた。立っていられないほどの強烈な地震のあと「津波がくる」と思って、高台の自宅に逃げた。海をはるか下に見下ろす阿部の自宅は、波が届くはずのない場所だった。

「お父さんは、ちゃんと沖に逃げたかな」

 ワカメの養殖で海に出ていた夫を気遣いながら庭にいると、突然、近所の人の声が聞こえた。

「逃げろ!」

 振り返ると、波は目の前に迫っていた。慌てて駆け出した瞬間、シルバーカーを押す老婆の姿が視界に入った。

「おばあちゃん、逃げて」

 民子は叫んだ。助けに行こうと思ったが、波に足をすくわれかけた。無我夢中で山の斜面を駆け上がった。

 船を沖に出して津波を免れた夫は、しばらく洋上で足止めされたが、数日後に戻ってきた。船も無事だった。二人の息子はすでに南三陸を離れている。しかし、民子の心には老婆を救えなかった自責の念が残った。

 今でも部屋のカーテンが揺れると「あのおばあちゃんがいる気がする」。

 震災前、民子の住む戸倉地区には漁業を営む家が27軒あった。作業場が壊れ、船を流された人もいたので、漁業協同組合(漁協)を作って国や自治体の支援を受けた。自営の漁師が一時的に月給取りになったわけだ。民子の夫も漁協で養殖の仕事を再開したが、民子は海に出られなかった。

「お父さんごめん。私、まだ海さ怖い」

 民子は仮設住宅に住む高齢者を見回る監視委員の仕事を始めた。