フェイスブックの「友達リスト」
――恐るべき「社会的比較」装置

社会的比較が、嫉妬や自尊心への脅威といった、人間関係に響く感情を引き起こすという事例は、なにもこれに限ったわけではない。

 たとえば、フェイスブックの会員は「コンペア・ピープル(人々を比較する)」というアプリケーションを使える。名前からもわかるように、このアプリケーションは社会のネットワークに蔓延する日常的な比較を、いっそうあからさまなものにする。

 コンペア・ピープルはユーザーに、フェイスブック会員の「友達リスト」からランダムに2人ずつ選び出し、いっしょに買い物に行くならどちらが楽しいか、格好いいのはどちらか、プロフィールの写真がすてきなのはどちらか、という具合に、さまざまな基準(ありがたいことに、それらはみなポジティブなものばかりだ)で評価させる。本人のネットワークに所属するほかのメンバーもまた、この「お楽しみ」に加わって互いに評価しあうよう誘われる。

自分のネットワークに所属する人のペアを次々に比較をすることで、フェイスブックの友達や知り合いの全員を、特定の基準でランク付けできるのだ。そして彼らもあなたをランク付けできる。こうした競争の「勝者」はその結果を知り、「敗者」は知らされない。だが、勝者も誰がどのように自分を評価したかは知らない。わかるのは、特定のカテゴリー(たとえば、フランチェスカのネットワークで誰がいちばんうまいジョークを言うか)で自分がもっとも高く評価された、ということだけだ。

 こうした評価は、それを下す側の気持ちや決定だけでなく、評価される側の気持ちや決定にも影響を与える可能性が高い。あなたがこのアプリケーションを使ったとして、特定のフェイスブック仲間のネットワークで、誰よりも服のセンスがよいと知った翌日は、浮き浮きした気分で仕事に行けるかもしれない。このアプリケーションの例からわかるように、私たちは他者をランク付けしたり、他者が自分をどう評価するかを知ったりしたくてうずうずしている。ワインの鑑定眼や人好きのする性格、魅力的な外見など、たとえどんな面に注目するにしても、私たちは他人と比べて自分がどうかを知ることに価値を認める。

 だが、この単純な事実を正しく認識できるとしても、このように日常に蔓延する社会的比較のプロセスによって、私たちの決定が左右され、計画が脱線することを正しく認識していない場合が多い。