久我山の町は、杉並区の住みやすさを典型的にみせてくれる住宅地である。交通の便、環境の良さ、街の落ち着いた雰囲気は、都区部西部のトップレベルにある。そうした街が杉並区独特の、大通りから1本曲がり込んだ細い道の向こう側にひっそりとあるのだ。派手ではないが評判は高く、住む人々の文化的水準も高いといわれている。

文化人が多く暮らす街

 文化人の多い稀有の街杉並区の住宅地を肯定的に語る言葉はいまも昔も「落ち着いた街」である。中央線沿線の各駅前を含めて、大ショッピングゾーンがあるわけでもなく、プレイスポットが集中していることもない。区内の南部、京王井の頭沿線ならばなおさらのことである。渋谷、新宿といったターミナルに盛り場としての機能を預け、住宅地としてのあり方で街のよし悪しが計られるのが、杉並の街なのである。

 ベッドタウン、といってしまえばそれまでなのだが、しかしこれらの街の歴史は古い。

 大正年間の関東大震災を機に人口が都心から拡散した時期の初期に街としての形を整えはじめ、完成していった街である。当初は“郊外”であったが、いまでは都心に乗り換えなしのアクセスをもつ至近の住宅地である。
久我山はそうした杉並区の住宅地のなかでも、第一級の評価を与えられている。区内の他の街に比べて、緑・水の自然環境が良いこと、街を貫く自動車道路の交通量がさほど多くないことなど、この街の長所は数え上げやすい。

 加えて久我山は「文化人の多い街」という称号を得ている。イメージだけではなく、例えばこの町内には多くの東大名誉教授が住んでいたりするのだ。また現役の学者はさらに多い。

 東京大学駒場キャンパスに通勤の便がいいことを考えに入れても、こうした街の存在は稀有だろう。久我山はある種、「知のベッドタウン」を形成しているといってもいいだろう。

井の頭線の開通で
大きく変貌

 駅開設の当初は「畑の中の一軒家」もともとは久ヶ山村。江戸時代は天領(幕府領)の農村であった。ゆるやかな丘の続く中を神田用水(現・神田川)が流れる、のどかな江戸西郊の村だったといわれる。明治に入り、高井戸村に編入。村の名は字名として残った。

 村が街に変貌していくキッカケになったのは、昭和8年の井の頭線の開通である。ただし当初は、下りの線が井の頭までしか通っていない行き止まりの鉄道だった。そのために久我山駅は、行楽電車の途中駅といった存在となり、駅は畑の中の一軒家であったという。

 乗降客が目立つようになるのは翌昭和9年、井の頭線が吉祥寺まで開通してからの話である。郊外のベッドタウンとして発展していった中央沿線と交通につながりを持つことによって、久我山もまた住宅地となっていった。

 高井戸町大字久我山の時代を経て、1つの街へ。戦後は画家の東郷青児らが住んだこともあり、“文化人の住む街”というイメージが定着。環境の割にアクセスの良い都区部西端の街は、好ましい住宅地として評判が高まっていった。