“いのちのうつしかえ”のとき
透明になる

 だから今回出版させていただいた『限りなく透明に凛として生きる』のテーマである“透明”についても、わたしが「どう考えている?」と周りに聞いても、だれもついてこない。
 わたし自身、なんとか説明したいと思っても、「うーん」ってね。

 『イスキア』の活動を始めて半世紀。“透明”は、わたしの中で、ずっとあたためてきたテーマだったんですね。

 大地に生えていた野菜をゆがくことでいっそう色鮮やかになる瞬間は茎が透明になる。焼き物がいちばんよく焼ける瞬間は透明になる、せみが脱皮する瞬間は透明になる。

緑の野菜と同じように、<br />なぜ人も「透明」であることが大切なのか?

なんでも“いのちのうつしかえ”が行われるときは透明になるんだって。
 食材も物もこのように透明になるのだから、人も透明にならなきゃいけないってね。

 でも人が透明になるには何もいらない。そのままでいいんですよね。
 こうすればいいからってやりだすと、そんなの余分だもの。一生懸命になろうなんてことは全然ダメ。

透明感のある人とは?

神様から見たら、偉い人も偉くない人もいないんだって。みんな等しいというのを聞いて、わたしもそれを心に留めているんです。

 わたしを透明感があるというふうにおっしゃってくださる方がいるけれど、自分自身ではわからないの。

 でも、わたしがお会いしてみて、あの人は透明感があるな、というのは始終感じますよ。
 有名な方だけでなくてふつうの方でもね。
透明感のある人は、欲望もないし、希望もない、でもそのままで生活できる人。素直な人は透明感がありますね。

 透明感と同時に大事なのが「はい」という返事だと思うの。
「ここがわかりましたか?」と言われたときも「はい」と受けるか受けないかで大きく変わってくると思う。でもね、これがなかなか出ないの。「はい」っていう返事が。

 すごくいい言葉で、わたしも大好きなのですが、一日どれぐらい「はい」と言っているのか聞かれると、やっぱり反対のことを言っていることが多い。

 ほんとうに「はい」って言わないもんですよ。
 何か自分の考えを出したいわけ。やっぱり自分というものを出して生きたいのが人間の常だからね。

 でも、非常に軽く「はい」と言って、実践に移るというのは尊いのではないでしょうか。