チベットの文化は
「分離独立の源」とみなされている

 チベット人と中国人は、古代から隣人同士の間柄として暮らしてきました。両者の2000年にわたる歴史を振り返ってみると、剣を交えた時代もあれば、国王が姻戚関係になるほど友好的な絆を深めた時代もありました。

 しかし、1949年に中華人民共和国が建国されるや、人民解放軍がチベットに侵攻し、紛争の種が芽生えました。翌50年にはチベット全域を中華人民共和国に併合し、51年5月には中国とチベットのあいだで「チベットの平和的解放のための17ヵ条協定」が結ばれました。54年から55年にかけて北京に滞在したダライ・ラマ14世は、全国人民代表大会に出席し、毛沢東国家主席をはじめとする多くの指導者と出会い、彼らの献身的な姿勢に励まされ、楽観的な気持ちでチベットに帰国しました。

 ところが、56年ごろになるとチベットにおいて緊張が高まり始め、59年3月10日には中国の支配に反対する民衆がラサで蜂起しました。中国軍による侵攻が激しくなるなかでダライ・ラマ14世は国外へ脱出し、隣国のインド北部にチベット亡命政府を樹立したのです。

 以降、中国政府とチベットは幾度となく衝突を繰り返し、両者の交渉はまったくといっていいほど進展していません。前述した欧州議会の演説で、ダライ・ラマ14世は次のように訴えました。

 祖国を離れて四〇年以上になりますが、その間ずっとチベットは中華人民共和国の完全な支配下にあります。大規模な破壊やチベットの人びとが被った苦悩は今日よく知られています。このような悲しく痛ましい出来事については、これ以上お話ししたくもないほどです。亡くなったパンチェン・ラマ一〇世の七万字に及ぶ中国政府への陳情書は、チベットにおける中国の厳格な政策と行動を鮮明に綴った歴史的証言です。

 チベットは今も占領された国であり、力によって抑圧された苦悩の痕跡があちこちに見られます。ある程度は経済的にも発展したにせよ、チベットは今も、民族として生き残れるかどうかという根源的な問題に直面しています。チベット各地で見られる深刻な人権侵害は、往々にして人種や文化に対する差別政策によるものです。

 そして、その背後には、さらに根深い問題が存在しています。中国当局は、チベット独自の文化や宗教を分離独立の脅威の源とみなしています。それゆえ、中国政府による意図的な政策の結果として、独自の文化とアイデンティティーを持つチベット人全員が、絶滅の危機に瀕しているのです。(41~42ページ)