江戸の昔を語り部のように再現する蕎麦屋があります。ミシュラン一つ星「翁(おきな)」です。その輝きは白色の更科蕎麦の上にきらりと光っています。女将が語り、蕎麦職人が旬の味わいを創り上げます。江戸蕎麦物語にはオーラがありました。

(1)店のオーラ
初代「布屋太兵衛」が現れる

 江戸の昔、麻布に3本の滝落ち浄水池があったといいます。

 初代「布屋太兵衛」はその一本の浄水池の傍らにつゆの元になる「返し」を保存する庫(くら)を造りました。

 蕎麦つゆの素を造る本返しをそこにしばらく寝かすと、醤油は丸く甘味をおびたそうです。

 それは絶好の冷蔵状態で保管庫の役割をし、まろやかな熟成を進めたに違いないのです。

 この手間ひまかけた斬新なつゆを考案し、人々を驚嘆させた白く輝く『更級』蕎麦を生み出し、いっぺんに「布屋」は江戸市中に名を上げました。

江戸つゆの原点を求めると、蕎麦も「更科」にたどり着く。「翁」の始まりはここから

 その“つゆと更科蕎麦”を再現するために、二人はこの恵比寿に「翁」を開いたのです。

 「八代目松之助」堀井君子さんと、中島潤さんがその二人です。

 中島さんは関西の人です。蕎麦屋を目指して東京に上がってきました。東京の辛(から)つゆを求めて、当時老舗を何店も食べ歩いたといいます。

 「やっと、麻布の永坂更科がこれだと思い定めて、玄関を叩きました」

 この時、「永坂更科」には、堀井七代目女将や君子女将がいました。中島さんはこの堀井七代目に大いに可愛がられ修行に励みます。この出会いがやがて中島さんの歩む道を決定づけていくことになります。

返しでふっくら煮立てた、蕎麦の実入りのふぐの白子。「翁」の始まりは「返し」から。

 中島さんが入って4年すると、やがて堀井家は永坂更科と別れ、同じ麻布に更科総本家「堀井」を開きます。この時七代目の引きで中島さんも同時に「堀井」に移ります。

 「堀井」は昭和初期に事情があって、店を閉めましたから、ようやくの復活となったわけです。

 「子供の頃の堀井が懐かしい」

 中島さんは、その言葉を何回君子女将から聞いたことでしょう。

 その堀井全盛の頃のイメージを、中島さんは自分の創造力の中で膨らましていました。