1998年に、僕は「A」というタイトルの自主制作ドキュメンタリー映画を発表した。撮影開始時には、テレビで放送されることを前提にしていた作品だった。でもオウムを絶対悪として描こうとしていないとの理由で、所属していた番組制作会社から撮影中止を勧告され、しかたがなく休日を使って1人で撮影を続けていたら、今度は契約を解除され(つまりクビ)、最終的には制作も配給もすべて自分でやるという自主制作映画になった。

 被写体はオウムの現役信者たち。でもテーマはオウムそのものではなく、オウムを包囲するこの日本社会に射程を置いたつもりだ。

 東京、大阪、名古屋、札幌など、いくつかの主要都市の独立系の劇場で公開したのだけど、動員ははかばかしくはなかった。なぜ金を払ってオウムなんかのドキュメンタリーを観なくてはならないんだと言われたことがある。この社会のオウムに対しての嫌悪と忌避感、そして憎悪は凄まじいとあらためて実感した。

 その嫌悪と忌避感、そして憎悪が、その後の日本社会を内側から侵食した。じわじわと蝕んだ。僕はそう思っている。確信している。振り返ればこの社会の激しい劣化や変化の起点は1995年にある。それを一言にすれば、不安や恐怖を燃料にした危機管理意識の高揚だ。対外的には仮想敵を作り、そして対内的には共同体の結束や管理統制を求める声がとても強くなり、政治や司法、そしてメディアがこの民意に従属し、法やシステムが急激に変わった。いや過去形ではない。今も変わりつつある。

 社会の異物であるオウムを撮ることで、僕自身もこの社会の異物となった。そもそもはテレビ・ディレクターだったのだけど、「A」発表後はなかなかテレビでは仕事ができず、深夜のドキュメンタリー枠などが主なフィールドになった。そしてそこで気がついた。ドキュメンタリーを撮ることが、とても面白くなっていたのだ。

 なぜ面白くなったのか。あるいは、なぜ僕はオウムの信者たちを被写体にした作品を撮り続けたのか、その理由は共通している。自分の中の共同幻想が崩れたからだ。