ドイツ圏には「国民経済」の概念がなかった

 当時の英国はイングランド、スコットランド、アイルランドの連合王国でした。しかも19世紀初頭には連合議会までありました。

 フランスは国としては既にまとまっている。19世紀には王政、帝政、共和政が入り組んで混乱していたとはいえ、国民国家として存在していたのです。

 一方、ドイツはぜんぜん違う状況でした。12世紀から14世紀にドイツ人の東方植民が進み、これによってドイツ人は東欧からウクライナまで、ものすごく広範囲に暮らすようになる。ドイツとは、もともとライン川以東の「ドイツ語を話すゲルマン諸族」という意味です。英語ではチュートン(Teuton)という。国のことじゃないんだよね。多い時代には300もの領邦に分かれていました。規模と数は江戸時代の藩に近いです。

 オーストリアは、スイスのハプスブルク家による婚姻政策によって領域を拡大していきました。第1次大戦時の支配領域は、北はポーランド南部、チェコ、スロヴァキア、東はハンガリー、ルーマニア、ウクライナ西部、南はバルカン諸国まで支配していた。当然のことながら多言語、多民族の帝国です。

 ドイツ圏全体は19世紀初頭まで神聖ローマ帝国として緩い連邦を構成していました。ドイツ王が皇帝を兼務します。オーストリアのハプスブルク家が長期間にわたり、その地位についていました。江戸幕府よりも緩く、中央政府とはいえません。

 このようにドイツは19世紀末までバラバラだった。つまり国民経済の概念が生まれる環境ではなかったわけです。

 それぞれの領主(王)の家計こそ領民の経済そのものでした。エコノミーの語源はオイコノミア(家計)です。ドイツ圏の経済学は、まさに王家の家計分析だったわけです。経済学者は、それぞれの王家の家計と交易の歴史的研究を元に、経済的課題を解決するための社会政策を研究しました。

 歴史学派として大学で講座を開き始めたのは英国のリカードやマルサスが活躍していた時代よりも後、ドイツ帝国成立の前後です。

 歴史学派にすれば、経済は国や環境によってそれぞれまったく違うのだから、それぞれの歴史的研究が重要で、英国古典派のように一般化するのは間違いだ、と主張したわけです。

受講者 マルクスが生活し、『共産党宣言』や『資本論』を出版したのは亡命先のロンドンでしたよね。内容も英国経済を研究した成果だと。しかし、それでもドイツ圏では新古典派経済学の登場は早かったと聞いたのですが……。

 そうです。国民経済の成立が遅れたとはいえ、学術と芸術全体をみれば、ドイツ圏は発達していました。哲学、法学、文学、音楽、科学も先進地域です。各地で王家が大学をつくり、音楽家や学者のパトロンだったからね。