その後の日本を決定づけた安保条約の大きな代償

 ではその日米安保条約とは、どんな内容だったか。ここではスペースの都合があるので、全文は以下で確認してほしい。

日米安全保障条約(旧)全文
(東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室 データベース『世界と日本』)

 読んでみて、どうだろう。気になる箇所が3つある。まずは表現上の問題。この条約の文は、1951年初頭から半年にわたる日米交渉の中で確定したものだが、ほとんどの内容で「日本は~を希望する」となっている。

 つまり、日本から頭を下げて米軍に「いてもらう」格好になっているわけだが、占領統治下の日本で、米軍人の犯罪件数が2万件を超えていたことを考えると、日本国民の総意として米軍に「いてもらいたがっていた」とは思えない。つまりこれは、吉田茂が「いてもらいたがっていた」と考えられる。

 そして2つ目は、米軍の権利と義務の問題。第一条を見ると、日本は「米軍の日本駐留を認める」一方で、その米軍は「外部からの武力攻撃に対し、日本の安全に寄与するために使用“することができる”」と書いてある。「することができる」とは「しなくてもいい」ということで、つまり米軍には、日本防衛義務はなかったということだ。

 日本防衛義務がないのに、日本に基地を置く――つまり日本は、単なる米軍基地の極東出張所として利用されるだけだったのだ。

 さらには3つ目の問題。第三条に「両政府間の行政協定で決定する」とある。でもそんな条件、わざわざ行政協定なんか結ばなくても、この安保条約に直接書けば済むはずだ。なのに別個に行政協定。これは一体どういうことだろうか?

 これはつまり、条約よりも行政協定のほうが批判されにくいからだ。なぜなら条約は必ず国会審議を必要とするが、行政協定なら内閣の意向だけで決められる。

 つまり、吉田首相は「米軍基地の提供範囲・日本の費用負担・犯罪者への裁判権」といった、いかにも国民から批判されそうな内容は、国会を通さず政府間で秘密裏に処理しようと考えたのだ。

 この日米行政協定は、1960年改定の「日米新安保条約」(連載第4回で詳述)では「日米地位協定」と名前だけ変え、「基地内に日本の法は適用されない」だの「米軍人犯罪者は起訴前に拘禁できない」だのと、今もキナ臭い内容をビンビン含み、日米間の基地トラブルの元となっている。

 このように日米安保条約には、いろいろと問題が多い。どこまでも自分本位なアメリカと、アメリカ本位な日本。結局、日本は独立後も吉田茂が首相の座に居座ったことで、対米追従路線はまったく変わらなかった。だが、その見返りとして、日本はアメリカから経済的繁栄が約束された。アメリカ親分に忠誠を誓えば、見返りは大きい。

 この後日本は、警察予備隊を「保安隊」に、保安隊を「自衛隊」にと着実に再軍備への道を歩んでいくことになるが、それと同時に経済は奇跡の成長を遂げる「高度経済成長期」へと突入する。

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