金権政治の金脈と人脈

 しかし、その行動力と人柄で国民から愛されてきた田中首相も、狂乱物価あたりから徐々に人気が下降線をたどり始め、ついに1974年10月、大きなスキャンダルが発覚する。「田中角栄金脈問題」だ。これは雑誌『文藝春秋』誌上で、フリージャーナリストの立花隆が組んだ特集記事「田中角栄研究――その金脈と人脈」がきっかけとなった事件だ。

 それによると、田中のファミリー企業は、佐藤栄作内閣の晩年、田中角栄が自民党幹事長だった頃の1969~70年にかけて、信濃川河川敷の土地を約4億円で買収したが、なぜかその直後、そこで公共事業が行われることになり、地価が数百億円に跳ね上がったというものだ。

 これは怪しい。4億円が数百億円って、そんな不自然な土地売買、「超ラッキーでした」なんて説明では、絶対国民は納得しない。しかも田中はその後、1972年の自民党総裁選に出馬し、そこで80億以上のカネが乱れ飛ぶ金権選挙を展開したと言われている。

 田中といえば「数は力、力はカネだ」「借りたカネは忘れるな。貸したカネは忘れろ」など、政治手法に“カネを使う”ことで知られている。官僚対策にカネを使い、派閥の若手にカネを使い、他派の切り崩しにカネを使い、地元対策にカネを使う。しかもそのほとんどは「返済無用」だ。私腹を肥やす使い方ではないが、これでは相当なカネがかかる。

 その“金脈”がこんなインサイダー取引まがいの錬金術だとしたら、看過できない。世間は騒然となり、内閣支持率は急落した。結局この事件では、関連企業幹部何人かに有罪判決は出たものの、田中自身の関与は、立証されずに終わっている。

 しかしそれでは、このスキャンダルを拭い切れたとは言えない。結局、田中は1974年12月に辞任し、その2年後の1976年、「ロッキード事件」という旅客機受注をめぐる大型汚職事件で逮捕される。

クリーンな政治は嫌われる!?――三木武夫

経済成長が止まると政争に明け暮れる!?<br />戦後史上、最もドロドロしていた権力ドラマ三木武夫

 その田中の後を受けて総理になったのが、三木武夫だ。三木といえば“クリーンな政治家”の代表格として知られている。幼い頃から政治家を志し、徳島の高校時代には、不正会計を行った校長の追放運動を主導して放校処分になり、転校先の神戸では関西地区の弁論大会で優勝し、明治大学入学後も弁論部で活躍。そして大学卒業後、いきなり無所属で衆院選に立候補し、見事当選を果たす。

 企業勤めや役所勤めの経験を持たないまま国会議員となり、そのまま50年以上勤め上げる。まさに三木は、議会以外に自分の居場所を求めなかった“議会の子”であった。

 三木は官僚政治を嫌い、金権政治を嫌い、自己の信条に反する政治を嫌った。だから彼は、大臣経験は多いが辞任も多い。岸内閣では経済企画庁長官を辞め、佐藤内閣では外務大臣を辞め、田中内閣では副総理を辞めた。すべては、自己の信念に合わない政策や腐敗に抗しての辞任だった。

 そんな不器用な生き方をしてきた三木だからこそ、田中の後継総裁として指名されたのだ。本来なら、弱小派閥・三木派のボスにすぎない彼に総理の座などなかなか回ってこないが、今世間から求められているのは「政治浄化」。この役割に、三木以上の適任者はいない。

 だから、三木は内閣総理大臣になり、その後はひたすらクリーンな政治を求め、政党政治の浄化や自民党の体質改善、ロッキード事件の真相追及などに努めた。

 しかし、そういう“きれいな政治”は、自民党議員から煙たがられる。「白河の清きに魚も住みかねて……」ではないだろうが、“元の濁り”の恋しい連中は、徒党を組んで少数派閥の三木内閣を攻撃し、全力で「三木おろし」にかかった。結局三木は、衆院選で議席を減らした責任を取らされる形で、1976年12月に辞任した。