東京と関西の講演旅行を終え、1931年2月13日、欧州航路の靖国丸(日本郵船、1930年完成)で神戸を出航したシュンペーターは、翌日午後、寄港した門司で待ちかまえていた高田保馬に会い、2時間ほど最後の討論を行なって日本を去った。

 靖国丸の航路は、神戸~上海~香港~シンガポール~マラッカ(マレーシア)~ペナン(マレーシア、マラッカ海峡の北端)~コロンボ(インド)~ポートサイド(エジプト、スエズ運河の北端)~マルセイユ~ロンドン~アントワープとなっている。通常、ロンドンまで6週間の船旅である。シュンペーターはおそらく、マルセイユで下船して鉄道でボンへ帰ったと思われる。

 そして1931年4月からボン大学で講義を再開し、翌1932年冬学期よりハーバード大学正教授として米国へ移住することになるのだが、その前に、神戸で議論した日本人経済学者の早川三代治(1895-1962)について記しておきたい。

シュンペーターに初めて会った
日本人は早川三代治?

 1931年2月10日、神戸商大講堂で3回目、日本における最後の講演が午後3時から5時まで行なわれた。テーマは「利子の理論」、終了後は質問討論会、そして最後の晩餐会である。ホストの丸谷喜市田中金司などの神戸商業大学教官のほか、高田保馬(京大兼九大教授)、柴田敬(京大講師)、早川三代治(北大講師)が招かれて夜10時半まで議論が続いた(連載前回参照)。

 この連載で、シュンペーターが初めて会話した日本人は河合栄治郎(東大経済学部教授)だろうと何度か書いてきたが、早川三代治のほうが先にシュンペーターに会っていた可能性がある、という記録があった。

 高田保馬、柴田敬は現在でもよく知られている経済学者だが、早川三代治に関してはほとんど知られていない。しかし、神戸商業大学が札幌から招くほど、1930年代初頭に数理経済学で先進的な著書を発表していたのである。

 早川の年譜(★注1)によると、早川三代治は1895年、小樽の地主の家に生まれた。中山伊知郎や東畑精一と同世代、シュンペーターの一回り下の年代である。以下、年譜にはこのように記載されている。

1921(大正10)年3月
・北海道帝国大学農学部を卒業、卒業論文の題目は「収穫逓減の法則について」
1921年10月~1923年3月
・ヨーロッパ留学。(高岡熊雄博士の勧めにより、10月より大正12《1923》年3月までボン大学でハインリヒ・ディーツェル教授に師事。
1924年2月~1925年1月
・1924年2月、ベルリン大学で学び、その後14《1925》年1月の帰国までは、ウィーン大学でヨゼフ・シュンペーター教授に師事、その間ローマ、ハンガリーのWolfgang Heller、Theo Suranyi-Unger教授等の指導を受けた。)

 早川家は裕福な地主階級であり、4年間の私費留学だったという。年譜では1924年3月から1925年1月までウィーン大学に在学していたように読めるが、本連載の読者はご存知のとおり、シュンペーターは1924年秋までビーダーマン銀行の頭取で、1925年10月にボン大学教授に就任するまでは浪人していた。そもそも、ウィーン大学教授だったことは一度もない。

 この年譜は早川の没後に作成されたものなので事実関係が確認されていないと思われる。しかし、1924年3月から1925年1月のあいだにシュンペーターと会ったことは間違いないようだ。河合栄治郎・東大教授がシュンペーターをスカウトしにいった時期に重なるので、早川のほうが河合より先に会っていた可能性はある。