“悪い皇帝”問題をいかに乗り越えるか

加藤 最近、北京大学を訪れた際、そこの先生までもが「習大大」(習おじさん)と言って、習近平を持ち上げていました。ポピュリズム政治がここまで浸透しているのだと驚きました。中国の多くの人々はやはり強い皇帝を求めているんだなと感じさせられました。知識人か労働者かにかかわらず、強い皇帝がいて、その人がお国や社会をしっかりマネージしてくれていれば、それが一番いいのだと。自分たちが政治に無関心でいられることを潜在的に“歓迎”しているようにも移ります。

 中華人民共和国ができるずっと昔からのこの伝統は、根本的には何も変わっていないように思います。上海や広東も含めて、中国では市民の政治参加が根づくにはまだまだ長い時間と道のりが必要のようです。そう考えると、結局は、良くも悪くも党内民主しかないのかなと感じています。

北岡 それは昔から繰り返された話ですよね。たとえば、1915年に袁世凱が皇帝になろうとしたときに、そういう議論をよくしました。アメリカは、中華民国をシスター・レパブリックといって支持していたのですが、そのリーダーが皇帝になろうとした。アメリカはたいへん困ったわけです。

 強いリーダーがいなければどうしようもないことはわかっている。ただ、強いリーダーがもしおかしくなったとき、どうすべきなのか。民主主義の根源にあるのは、リーダーは必ず間違える、間違えたらどこかで取り替えるということです。中国の場合、それを10年で取り替えることになってるわけですよね。とてもおもしろいメカニズムだと思います。

 加藤さんがおっしゃるとおり、これしかないというのはあるのでしょう。政府はほとほと信用できないが、なくても困る。そのくらいに思っているんじゃないですかね。

加藤 「“悪い皇帝”問題」(bad emperor problem)は中国政治を解析するうえで欠かせない視点だと思います。民主主義では、常に良いリーダーを生産できるかはわからないものの、少なくとも“極端に悪いリーダー”は排除されるメカニズムを制度的に確保することができる。一方で、中国の政治体制下では、良いリーダーの生産は民主主義体制よりも容易な場合もあるかもしれませんが、極端に悪いリーダーの出現を未然に防ぐ、あるいは途中で退去させる仕組みを担保できません。

 最近、中国経済がハードランディングするかどうかという議論が起こっていますが、中国が政治的にソフトランディングするためには、どうすべきなのでしょうか。簡単に予測できる問題ではありませんが、北岡先生のお考えをお聞かせください。

皇帝・習近平は、中国をいかに統治すべきか加藤嘉一(かとう・よしかず)
1984年生まれ。静岡県函南町出身。山梨学院大学附属高等学校卒業後、2003年、北京大学へ留学。同大学国際関係学院大学院修士課程修了。北京大学研究員、復旦大学新聞学院講座学者、慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問)を経て、2012年8月に渡米。ハーバード大学フェロー(2012~2014年)、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院客員研究員(2014〜2015年)を務めたのち、現在は北京で研究活動を続ける。米『ニューヨーク・タイムズ』中国語版コラムニスト。

北岡 先のことはわかりませんが、いまの体制はそれほど長く持たないのではないかという気がしています。かなり無理がありますよね。いくつかの国有企業の改革やストックマーケットの改革、都市と農村の格差の解消など、少しずついじってはいる。それは、日本から見るとそれぞれ大きな変化です。ただ、それで根本的にうまくいくような感じもしていません。

加藤 習近平の父親世代が共産党をつくり、そこから天下を獲った世代の子どもたちにとっては、共産党あっての中国という意識が強いと私は見ています。習近平は共産党の権力や威信が強化されてこそ国家は安定し、社会が繁栄すると考えていると思います。

 ただ、習近平は毛沢東主義に対しては批判的で、警戒もしています。「毛」=「党」ではない、つまり、毛沢東=共産党ではないと。また、中国はある意味プラグマティズム(実用主義)の国なので、共産党一党支配というボトムライン以外の分野ついては、あらゆる政策を柔軟に実行する、あるいは大胆に変えるという覚悟を持っていると思います。土地改革や金融改革、戸籍の改革、社会保障政策などについては、できるところまで実施する覚悟を持っているのかなと見ています。

北岡 それによって、いろいろな意味で多元化が進むわけですね。そして、それが跳ね返ってもくるわけですよね。私は中国の専門家ではありませんが、その後のシナリオについて、それほど説得的なものを聞いたことがありません。