アメリカ進出の転換点は
「アポロ計画」の部品受注だった

 それでも、従業員のことを思えば、あきらめるわけにはいきません。めげずに2回、3回と渡米して、営業活動を続けました。

稲盛和夫が語る「企業家精神」【第2回】<br />――アメリカ進出とアポロ計画の部品受注稲盛和夫(いなもり・かずお)
1932年、鹿児島県生まれ。鹿児島大学工学部卒業。59年、京都セラミック株式会社(現京セラ)を設立。社長、会長を経て、97年より名誉会長。84年に第二電電(現KDDI)を設立、会長に就任。2001年より最高顧問。10年に日本航空会長に就任し、代表取締役会長、名誉会長を経て、15年より名誉顧問。1984年に稲盛財団を設立し、「京都賞」を創設。毎年、人類社会の進歩発展に功績のあった人々を顕彰している。また、若手経営者が集まる経営塾「盛和塾」の塾長として、後進の育成に心血を注ぐ。主な著書に『生き方』(サンマーク出版)、『アメーバ経営』(日本経済新聞出版社)、『働き方』(三笠書房)、『燃える闘魂』(毎日新聞社)などがある。
『稲盛和夫オフィシャルサイト』

 その効果が現れ、ようやくアメリカで大手のテキサス・インスツルメンツから、アポロ計画の宇宙船に使う電子部品の受注があり、私どもの製品が日本で最初に採用されることになりました。

 するとその後は、丸紅など商社の方々が「ぜひ京セラの製品をわれわれに売らせてほしい」と多く見えられ、また日本のメーカーも「ぜひ使いたい」と言ってこられるようになりました。

 今、私どもはサンディエゴに従業員が約900人いる工場をもつに至っています。これは、買収した小さい工場で生産を開始したのが始まりでした。日本のメーカーでアメリカの現地に工場をもち、何百人というアメリカ人を雇って成功している例は、まだあまりないようです。いろいろな企業がアメリカへ行き、生産活動をしているものの、成功という段階には至っていません。

アメリカやヨーロッパの人々の考え方は、日本人とまったく違います。それに加えて言葉の壁もあります。もちろん、人生観や宗教観といったものもすべて違いますし、お互いがもっている文化にも、非常に大きな違いがあります。その中で経営をしていくのは、なかなかたいへんなことでした。

 この最初のアメリカの工場は、もともと私どものお得意先であったフェアチャイルドというエレクトロニクスメーカーが、サンディエゴにもっていたものでした。そこが赤字でうまくいかず、私どもに買ってくれと言ってこられたのがきっかけでした。

 技術者を5人ほど連れてアメリカへ行き、熊本の出身で九州大学を出た者をリーダーにして、操業を始めました。


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