橘玲の世界投資見聞録 2015年9月24日

ユーゴ内戦にみる「歴史修正主義」による殺し合いの連鎖
[橘玲の世界投資見聞録]

 1990年代に旧ユーゴスラビアで起きた凄惨な民族浄化の背景には、半世紀前のナチス占領下での「歴史の記憶」があった。ナチスの傀儡国家「クロアチア独立国」の極右民族主義団体ウスタシャの「民族浄化」の標的とされたのは、ユダヤ人、ロマ、そしてセルビア人だった。

[参考記事]
●ユーゴ内戦でジェノサイド=民族浄化を生み出したバルカン半島の「歴史の記憶」

 第二次世界大戦後、ユーゴスラビアは対独パルチザン(人民解放軍)を率いたチトー(ヨシップ・ブロズ・チトー)によって再統一され、スターリンのソ連と距離を置いた独自の社会主義(自主管理社会主義)によって1970年代には東欧諸国随一の繁栄を謳歌した。だが1980年5月にチトーが死ぬと、民族主義の台頭によってユーゴ社会はふたたび動揺しはじめる。

 今回も東欧史・比較ジェノサイド研究の佐原徹哉氏の『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』(有志舎)に依拠しながら、この時期、「歴史の記憶」がセルビアとクロアチアでどのように“修正”されていったのかを見ていこう。

銃弾の跡が残る廃屋@ボスニア、モスタル     (Photo:©Alt Invest Com)

 

ビール瓶が突き刺さったセルビア人農夫

 1985年5月1日、コソボに住むセルビア人農夫ジョルジェ・マルティノヴィチが肛門にビール瓶が突き刺さるという尋常ならざる状態で病院に担ぎ込まれた。

 コソボはセルビア、マケドニア、アルバニア、モンテネグロに囲まれたバルカン半島の内陸部にあり、歴史的にはセルビア王国発祥の地とされているが、1981年の人口調査では域内のアルバニア人の人口が77%(122万6736人)に達し、13%(20万9498人)のセルビア人は圧倒的な少数派になっていた。こうした人口構成の変化は、アルバニア人の出生率がセルビア人よりも高かったことと、貧しいコソボから人口流出が進んだためだった。コソボのセルビア人はセルビア共和国本土に比較的容易に移住できたが、アルバニア人はどこにも行き場がなかったのだ。

 多数派となったコソボのアルバニア人は、補助金の増額や自治州の地位向上を要求してたびたび暴動を起こし、そのたびに自治州の権限が拡大されてきた。だが1981年の暴動では、自治州から共和国への“独立”を要求したことで逆にユーゴ中央政府から激しい弾圧を招くことになった。

 その後、コソボのセルビア人が、独立を企むアルバニア人から迫害を受けているとの報道がセルビア本土のメディアで流されるようになり、両者の緊張は高まっていた。まさにそのときに、セルビア人の農夫が異常な状況で病院に運ばれてきたのだ。

 当初、マルティノヴィチはアルバニア人2人に襲撃されたと証言したため、これにメディアが飛びついて大騒ぎになった。だが彼の証言は二転三転し、襲ったというアルバニア人も特定されなかったことから、コソボ自治州政府の捜査官は特殊な性癖による自傷事故で、アルバニア人犯人説はそれを隠すための狂言だと判断した。

打ち捨てられたセルビア正教会@コソボ     (Photo:©Alt Invest Com)

 ふだんならたんなる笑い話としてすぐに忘れ去られるはずのこの出来事は、しかし、思いもよらない展開を見せる。

 セルビア側のメディアが「狂言説」をコソボ自治政府の“陰謀”と断じ、アルバニア人がコソボのセルビア人に対し「ジェノサイド」を行なっているというキャンペーンを張りはじめたのだ。新聞は連日のように、セルビア人墓地の冒涜事件やセルビア人家庭を狙って繰り返される投石事件を報じ、ついにはアルバニア人地下組織によるセルビア人女性への組織的な集団レイプまで登場した。現実には、イスラーム地域であるコソボの性犯罪発生率はユーゴの他の地域より低かったが、誰もこうした客観的データに関心を持とうとはしなかった。

 86年1月にはセルビアの約200名の著名な知識人が連署した請願書が提出された。コソボで長期的かつ致命的な「ジェノサイド」が進行中で、このままコソボが「民族的に純粋化」されるなら民族紛争を招くだろうとして、コソボのセルビア人の処遇改善を求める内容だった。

 また9月には、セルビア科学芸術アカデミーの「覚書」が公表された。――セルビアは戦後の連邦制のもとで一貫して不当に扱われ、「セルビアの弱体化がユーゴスラビアを強くする」として経済発展と政治的凝集化を阻むためのさまざまな制約を課せられてきた。コソボのセルビア人迫害は、アルバニア人民族主義者による「セルビア民族への公然たる総力戦」で、クロアチアやスロベニアを含む全連邦的な「(セルビア)懲罰政策」が「ジェノサイド」にまで進みつつある証拠だとされていた。

 こうした「民族浄化=ジェノサイド」キャンペーンのなかで熱狂的な支持を集めたのがセルビア共産主義者同盟のスロボダン・ミロシェヴィチで、のちにユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)の大統領としてボスニア内戦やコソボ紛争に軍事介入し、コソボのアルバニア住民に対するジェノサイドの罪で国連旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で裁かれることになる(2006年3月、収監中の独房で死亡)。佐原氏は、80年代半ばの民族主義キャンペーンは、ミロシェヴィチ台頭のために仕組まれたものであったことを示唆している。

セルビア人被害者説の根拠とされた「民族の記憶」

 佐原氏によれば、セルビア民族主義の特徴は「被害者意識」にある。

 ――セルビアの歴史修正主義者は自らをナチスに対する正義の解放者とし、「セルビア人は他民族に対していちども悪意を抱いたことはなく、常に高貴に相手を扱ってきた」というセルビア史の独善的な解釈を主張した。その一方で第二次世界大戦中のクロアチア人とボスニア人の残虐行為を過度に誇張し、すべてのクロアチア人がウスタシャであるかのように主張した。彼らは、セルビア人の善意に対してクロアチア人が一方的に憎悪と暴力で応えた「伝統」なるものを発見し、クロアチア民族主義者の非合理性を強調することで、セルビア人を歴史を通じて一方的な犠牲者であると描いたのだ。

 1990年のセルビア共和国大統領選挙前夜には、セルビア人被害者説はいっそうエスカレートし、ミロシェヴィチはテレビや新聞を総動員して、クロアチア新政府はウスタシャの復活だとのキャンペーンを展開した。

空爆されたビルの前で@ベオグラード         (Photo:©Alt Invest Com)

 

 この異様な雰囲気のなかで、共産党政権が長年にわたって封印してきた「虐殺の記憶」が蘇ってきた。


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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