橘玲の世界投資見聞録 2015年10月8日

ユーゴ内戦時に現れた異常な指導者「アルカン」。
ごくふつうの市民による「愛国」の名のもとの虐殺
[橘玲の世界投資見聞録]

 これまで3回にわたって、東欧史・比較ジェノサイド研究の佐原徹哉氏の労作『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』(有志舎)に依拠しながら、1990年代に旧ユーゴスラヴィアで起きた凄惨な殺し合いの歴史的背景を見てきた。

 個人でも集団でも、異常者でもないかぎり、正当な(合理的な)理由がなければひとを殺すことなどできるはずはない。ジェノサイドの本質が「歴史の修正」であるのはこのためで、「自分たちは本質的に犠牲者で、悪の脅威によって自分や家族の生命を危うくされており、自衛のための暴力はやむをえない正義の行使だ」という物語が民族のあいだで共有されてはじめて、ごくふつうの市民が、かつての隣人を平然と殺すことができるようになるのだ。

[参考記事]
●ボスニア・ヘルツェゴビナ、「スレブレニツァ虐殺」から20年の今、教訓にすべきこととは?
●ユーゴ内戦でジェノサイド=民族浄化を生み出したバルカン半島の「歴史の記憶」
●ユーゴ内戦にみる「歴史修正主義」による殺し合いの連鎖 

 安倍総理による「戦後70年談話」でも述べられているように、第一次世界大戦は近代兵器を使った人類初の総力戦で、そのあまりの被害の大きさに震撼した欧州では帝国主義・植民地主義からの脱却が模索されるようになった。だが遅れて近代世界に参入した日本はその潮流に気づかず、さらなる侵略に突き進んで国土は焦土と化した。

 アウシュヴィッツとヒロシマに象徴される第二次世界大戦のグロテスクな現実を前に、大国同士の総力戦は封印され冷戦が始まった。それは同時に、国民国家の主権を尊重し、内政不干渉の原則の下に、国家の内部でどのような理不尽なことが起きてもそれは国民の「自己責任」で他国は無関心、という暗黙のルールの支配でもあった。

 だが1990年代の旧ユーゴ内戦によって、この内政不干渉の原則は大きく修正されることになる。国際社会が傍観しているうちに、ヨーロッパの一部(裏庭)で凄惨な民族浄化の悲劇が起きたからだ(これに対しては、ドイツが一方的にクロアチアの独立を支持したことがユーゴの解体と内戦を招いた、との批判もある)。

 欧州社会での民衆の批判に押され、米国とEUはベオグラードなどの空爆に踏み切り、軍隊を展開してボスニアとコソボの紛争を収束させた。国際社会から一方的に「加害者」の烙印を押されたセルビアには大きな不満があるだろうが、この「内政干渉」の成功が「国家の主権よりも人権が優先する」という新たなルールを生んだ。

 この人権志向は国境を越える「積極的平和主義」としてイラク戦争やリビア、シリアの内戦への介入につながっただけでなく、歴史を遡っても適用される。1990年代から従軍慰安婦問題が欧米社会で取り上げられるようになったのは、ボスニア内戦での女性への性的虐待が背景にある。だが日本はここでも、元慰安婦の訴えが「女性の人権問題」であることに気づかず、韓国による「反日」宣伝に矮小化して対応を誤った――これはもちろん、韓国社会が慰安婦問題を「反日ナショナリズム」に利用したことと表裏一体だ。

 日本人にとって第一次世界大戦は、漁夫の利よろしく中国におけるドイツの権益を獲得できた「よい戦争」だったが、国際社会のパラダイム転換を理解できなかったことがその後の破滅を招いた。同様に大半の日本人にとって冷戦崩壊や東欧の民主化、旧ユーゴ内戦は他人事だろうが、EUにおける「人権」理念の中核にある現代史の体験を見逃すと、いまの「世界」を理解することはできない。その意味でユーゴ内戦は、わたしたちにとってもきわめて重要なのだ。

内戦が起きるのは、権力の空白が生じるから

 民族主義が台頭し、秩序が崩壊して内戦が起きるのは、権力の空白が生じるからだ。近代国家は定義上、国内のすべての暴力を独占しているが、この特権は国民多数の支持のうえに認められているのだから、通常はその暴力を国民に向けて行使しようとは思わない。

 スターリン治下の旧ソ連やポルポトのカンボジア、現在では金王朝下の北朝鮮のように、国民が国家の暴力の脅威にさらされることも少なくないが、これは特異なイデオロギーによって国家そのものがカルト化したからで、民主国家であれば、一部の国民がデモや暴動で不満を表明しても政府は暴力の使用を最小限に留めようとするだろう。民主的な多民族国家として出発した旧ユーゴスラヴィアでも、“建国者”であるチトーはできるかぎり暴力を使わずに民族集団間の不和や軋轢を収めようと腐心した。暴力の発動を過つと、国民の支持を失い権力の正当性が失われてしまうのだ。

 権力が暴力を独占できるほど強力であれば、人権の抑圧のような事態は起こるかもしれないが、ひとびとが日々の暮らしを営める最低限の秩序は維持される。ところが国内に民族主義や宗教原理主義が台頭し、国家が集団同士の衝突を抑えられなくなると、民衆に暴力が開放されるというきわめて異常な事態が到来する。異常な世界には異常な人物が現われ、あり得ないような異常な出来事が起こる。その象徴が、「アルカン」と呼ばれた一人のセルビア人だ。

アルカン/ジェリコ・ラジュナトヴィッチ(Wikipedia Željko Ražnatovićより)

 

 アルカンことジェリコ・ラジュナトヴィッチは「セルビア民族防衛隊」、別名「アルカンの虎部隊」のリーダーで、最盛期には1万人のメンバーを率い、自前の戦車まで保有していた。アルカン部隊は内戦中にクロアチアやボスニア、コソボなどで数々の残虐行為を繰り広げ、多数の市民を虐殺したことで「最悪の殺人集団」と恐れられたが、セルビア人のあいだでは不敗を誇る最強部隊として勇名を馳せた。アルカン部隊のもうひとつの特徴は、そのメンバーの多くが、ベオグラードの人気サッカークラブ、レッドスターのフーリガン(熱狂的ファン)だったことだ。

 ここでは、佐原徹哉氏の著作とWikipediaの記述をもとにアルカンの数奇な生涯を紹介しよう。

20代で神話的な人物となった「アルカン」

 アルカンは1952年、モンテネグロ系セルビア人の高級将校の父と、共産主義の活動家の母のあいだに生まれた。両親ともにパルチザンの闘士だったことから、幼い頃は厳格なチトー主義によって育てられ、これに反発したアルカンは家出を繰り返し、不良少年と交わり少年院での生活も経験したという。

 札付きのワルとして知られるようになったアルカンは、20歳でイタリアに渡り、ユーゴ出身者たちの地下社会でたちまち一目置かれる存在になる。「アルカン」の名は偽造パスポートの偽名のひとつで、それをニックネームとして使うようになった。

 アルカンは旧ユーゴの出稼ぎ労働者たちの犯罪ネットワークを利用して、ベルギー、スウェーデン、オランダ、オーストリア、ドイツ、スイス、イタリアなどで強盗、殺人などの凶悪犯罪を繰り返し、少なくとも7つの国で有罪判決を受け、インターポールのトップリストの国際指名手配犯になった。1974年にベルギーで収監されたが77年に脱獄、1979年にはオランダで逮捕されたが81年に再び脱獄した。それ以外にも逮捕歴は数多いが、いずれも拘留中に逃亡したとされている。こうしたことから、アルカンは早くも20代で神話的な人物となっていた。

ベオグラードの街角                  (Photo:©Alt Invest Com)

 アルカンが凶悪犯罪を繰り返しながらも、ルパン3世さながらの手口で司直の手を逃れた理由は謎に包まれているが、佐原氏は「ユーゴ秘密警察のエージェントであり、体制の敵を始末する掃除屋として使われていた」との説を紹介している。

 Wikipediaではより詳しく、次のように書かれている。

 「アルカンは若い頃からスロヴェニアの政治家でアルカンの父親の友人であったスタネ・ドランツ (Stane Dolanc) の庇護を受けていた。ドランツはユーゴスラヴィアの秘密警察UDBA (UDBA) の長であり、アルカンは1973年からUDBAのエージェントとして働き、政治亡命者や反体制派の暗殺に従事していた。ドランツはアルカンがトラブルに巻き込まれるたびにその報いとしてアルカンを助け出していた」


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橘 玲(Tachibana Akira) 作家。1959年生まれ。早稲田大学卒業。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。著書に『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』『(日本人)』(幻冬舎)、『臆病者のための株入門』『亜玖夢博士の経済入門』(文藝春秋)、『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』(ダイヤモンド社)など。
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