社会の底辺で酸いも甘いも噛み分けてきただけに、彼女はなかなか肝の据わった女性でした。うろたえる皇帝に向かって彼女は言い放ちます。

「陛下!よもや尻尾を巻いてお逃げになるつもりではありますまいな!?」
「おお、テオドラよ!そちにも聞こえるだろう、あの叛徒どもの怒声が。やつらがここになだれ込んでくれば、我々は肢体バラバラにされるじゃろう!もはや亡命するより他ないのじゃ!」

 この言葉に、テオドラは軽く嘆息して答えます。

「帝位は、最高の死装束なり」

「陛下。何を情けないことをおっしゃいます?今ならまだ、逃げようと思えば、それは逃げられるでしょうとも。しかしながら陛下、よくお考えください。陛下はこの先、あと何年生きるおつもりですか?今逃げて、よしんば助かったとして、どんな余生が待っているとお思いか。栄誉もない、誇りもない、亡命者としての惨めな余生が待っているだけです」

「そんな余生がそれほど大切なものですか?昔から言うではありませんか、『帝衣は最高の死装束なり』と。ひとたび男子としてこの世に生を受け、皇帝として生を全うできる者がいったいどれだけいるとお思いですか?」

「陛下は今まさに“帝衣を纏って死ぬ”という男子として最高の本懐を神から授かろうとしているのですよ?戦いなさい!最期まで戦って皇帝として死になさい!」

 このときユスティニアヌス帝49歳、テオドラ32歳。これを側で聞いていたベリサリオス将軍も帝の背中を押します。「陛下!男として生を受け、女子にここまで言われて引き下がるわけにもいきますまい!」。気弱になっていたユスティニアヌスの目にも輝きが戻ります。

「うむ、そのとおりだ!よくぞ申した、テオドラ!よくぞ申した、ベリサリオス!余も腹をくくったぞ!」

なりふり構わず、逆らう者は皆殺し

 ベリサリオス将軍が叫びます。
「陛下!私がもう一度、あの民衆の中に突撃いたします!」

 しかしながら、それは先ほど失敗したばかり。同じことをしたところで、その二の舞とならないでしょうか?実は、さきほどの突入が失敗したのは、僭帝の取り巻きたちに阻まれたからです。

「市民に危害を加えたくない」
「なるべく穏便に事をすませたい」

 そのような体裁にこだわったための失敗でした。しかし今回は違います。そんな体裁はかなぐり棄て、なりふり構わず、逆らう者は皆殺しにする勢いで軍を突入させます。すると、先ほどまでの傲然とした態度はどこへやら、軍の覚悟を見た叛徒たちの中にたちまち動揺が走り、彼らは算を乱して逃げ出していったのです。

 僭帝ヒュパティウスはあっけなく捕縛。こうして一時は帝国を存亡の機にまで陥らせた叛乱は、他愛もなく簡単に鎮圧できてしまったのでした。

強固に見える「壁」も意外に脆い。

 叛乱軍の一時の勢いに、宮廷側も「叛徒らもそれ相応の覚悟を以て臨んでいるもの」「下手すると、こっちが大怪我するかも」と思い込んで、気後れしてしまっていました。

 ベリサリオス将軍の第一次突撃の失敗もそこにあります。しかし、腹をくくって挑んでみれば、叛徒らに「ヒュパティウスのために命を賭けて戦う」などという覚悟はなく、ただ群集心理で騒いでいただけだったのです。

 人は「壁」に遭遇したとき、それを実物以上に高く分厚く感じてしまうことが多いものです。これは戦う前から心が萎えてしまっているためで、そうなると人は無意識のうちに心に制御装置をかけてしまい、本人は全力を尽くしているつもりでも、実は力を出し切れていないのです。こうしたとき、「腹をくくる」「開き直る」ことで、リミッターを外すことができます。

名君の陰に賢妻あり

 歴史上、「名君」と呼ばれる君主の陰には、必ず優れた相談役がいるものです。豊臣秀吉に黒田官兵衛あり。高祖劉邦に張良あり。そして、ユスティニアヌスにテオドラあり。

 千年を誇る東ローマ帝国の悠久の歴史の中で、唯一「大帝」の称号をもつユスティニアヌス1世ですが、その彼とて、このときの妻の「ひと言」がなかったら、このとき亡命し、歴史に埋没し、後世、誰にも知られることのない人物となっていたでしょう。

 逆に、ほどなく帝国は「西」のあとを追って滅亡し、「帝国を滅亡に追い込んだ無能皇帝」として有名になっていたかもしれませんが。どれほど優れた人物であろうと、自分ひとりの独断のみでは「名君」たりえません。

 巷間、妻の助言と支えで出世しながらその自覚なく、己がひとりの才覚と勘違いして若い女に走る者はあとを絶ちませんが、若い女に糟糠の妻が担ってきた重責が果たせるわけもなく、その先、そうした男に待っているのは「没落」の二文字です。