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日立との合弁会社設立で
退路を断って社長就任

――宮永さんご自身が経営者として「存在感が薄れていく危機感」を最初に抱いたのは、おそらく2000年に日立製作所の製鉄機械事業との合弁会社である三菱日立製鉄機械(MH製鉄)の初代社長に就任された時期だろうと思います。当時は鉄鋼不況の最中。将来の見通しが立たない中で新会社が設立されました。それが、いまではグループ内の稼ぎ頭の一つにまで成長しました。いかにして事業の改革を行ったのですか。

 いまから振り返ると、MH製鉄での取り組みは当社の構造改革の実験モデルだったと思います。

 私自身、広島の工場で製鉄機械事業に長らく携わっていました。日本の鉄鋼業の発展とともに成長しましたし、その後も韓国や中国の製鉄所や、アメリカのいくつかの日系合弁会社などの需要もあり、1980年代中頃から90年代後半まで、非常に好調でした。

 ところが1998~99年頃に世界同時の鉄冷えが起こりました。当社と日立製作所の製鉄機械事業は、最盛期の受注額は両社を足して1千数百億円でしたが、一気に100億円前後にまで落ち込みました。

 こうした中で両社の製鉄機械事業を統合するという話になったのですが、もともと、両社は永遠のライバルのような意識で闘っていましたから、当然、「統合なんて絶対に嫌だ」と言う社員も多数いました。

――そういう社内の反発に対し、どう説得したのですか。

 当時、ドイツのシュレーマンという会社が世界で最もよい圧延機をつくっていましたが、それを除けば、大手といえるのは当社と日立だけでした。この両者が助け合うことで、よい核融合が起こり、ものすごいポテンシャルを発揮し、世界ナンバーワン・メーカーになれるのではないかと考え、社員たちにそのようなメッセージを伝えました。

 そのためには両社で小さな火花を散らす消耗戦をしても仕方がありません。お互いが刺激し合い、競い合って、よいものをつくる。そして、互いが感情に囚われず客観的に評価し、素晴らしいものは素直に認め合うことで、みずからを高め合い、世界一の圧延機メーカーになる。そのために、両社で助け合おうというメッセージを、社員に対して何度も伝えました。

――MH製鉄の設立後、みずから三菱重工を辞めて、合弁会社に移籍しています。それまでの慣例で言えば、本体を離れるというのは片道切符です。退路を断って籍を新会社に移したのは、社長としての決意を示すためだったのでしょうか。

 どうでしょうね。少なくとも私自身は会社を辞めたからどうだといった話は社内でいっさいしませんでした。

 私が会社を辞めた大きな理由の一つは、日立製作所から合弁会社に来た人たちに安心してもらいたかったことにあります。

 MH製鉄は出資比率も出身者数も、三菱重工のほうが日立よりも多かったのです。しかし、三菱重工だろうが日立だろうが、対等に競い合い、世界一を目指したいと本気で考えていました。それなのに、社長である私が三菱重工に籍を置いたまま、「日立さん、一緒に頑張りましょうよ」と言ったところで、誰も本気で受け止めてはくれないでしょう。

 MH製鉄の社長就任後も常に意識したのは、どうやったら社員たちをエンカレッジできるかということでした。

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「トップ・マネジメントの教科書」CEOとCFO その新しい関係

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